多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 いろいろと埋めてまいりますのでお楽しみに。

2018.1.14 38縄目@アポロシネマ

2日連続、2タイトル連続鑑賞。
また、私の劇場鑑賞記録に一つの記録が生まれた。
今まで、君縄だけで記録されていた様々な記録が「言の葉の庭」でも作られつつある。これはすごいことである。

タカオとユキノの魂の叫びは、じっとりと頬を濡らすのに十分すぎた。
そして本日ラストとなる「君の名は。」昼一回目上映になだれ込む。館内は、さらっと一杯状態。完全カウントはかなわなかったが、A列(最前列/もしかするとあの方かも…)にも観客がいる状態。最終的には70人強と見られる。
TV放送が「つい2、3週間か前に」(瀧 談)あったはずなのに、この入れ込み。これは好循環が巻き起こっていると推察する。円盤を購入せず、この地上波を待っていた人が、それを見て、「ウワ―、これって映画館で見ておくべき作品じゃなかったのか」と気づかされ、うまい具合にアベノでやってるじゃん→行ってみるベー、となっている客層が少なからずいると見られることだ。事実、前日の鑑賞回。前にいた家族連れのお子様は、ペンが落ちるときに「あっ」と声を上げた。これすなわち、ストーリーを理解していない=初見と確定できるのだ。

その鑑賞層。前上映の「言の葉の庭」からの連続視聴をしている層にプラス君縄からの鑑賞勢が加わった感じの人数になっている。家族連れも2組ほど。同姓ペアも10組程度。カップルも当然のようにいる。初老/中年/若年層のソロも男女比で言えば男性が優位。それだけ「囚われている」人が多数いることに安堵し、驚愕する。
実は、今回すべての鑑賞層の平均年齢は、30代後半までとなっている。つまり、若年層の鑑賞が無視できないほど来ているということである。これは少しだけ胸をなでおろすところである。
2016年の公開序盤は若者だらけだったといわれるのだが、その若者層の需要は一巡するとしぼんでしまう。ところが、そこから30代以降の壮年/中年/老年層に広がっていく。そこからがすごかった。多分にキチ縄化した人たちが動員を引っ張っていたんだろうと思う。そしてそれが2017年の年始の大量難民を発生させる原動力になったとみている。

もう書くべきところはどこにもない…と思っていたが…ついにこの疑問も回答を出すことができてしまったのだ!!
ていうか、まだあったのだ…
確認すべくいつもの大号泣はやや抑え気味になった。無理もない。この間、今までほとんど歯を食いしばり、号泣してしまって、スクリーンをまともに見れなくなっていたのだから。まあおうち帰って円盤確認するのがいいかと思いましたが、変に修正されていると困っちまうもんですからね。
そして円盤もこの箇所の修正はなし。よって、この仮説というか結論もゆるぎないものになったといっていい。

いまだに問題が出てくる箇所がある。しかも物理的にである。物理的な点は、それが現象的に唯一無二だから二つ描かれていると「どっちかが正でどっちかが虚」なのだ。ここに気が付くかどうか。そしてそれに挑戦しているかのような監督や演出陣がいる。物語の構成しかり、時系列しかり、三葉の生死しかり(当方は、いまだに三葉は死んでいない説を猛烈に支持しており、そうでないとこのストーリーは破たんする)。
だからこそ、名作なのだ。論議をさせるほどの作品であったのだ。通り一遍、誰に聞いても同じ意見しか出てこない金太郎あめ的な均質な内容の作品ではなかったのだ。

「君の名は。」論はいまだに完成を見ていない。それはこの作品が未完のものだからである。未完。誰の目にもラストシーンは二人の出会いで終わり、その前に流れた「離したりしないよ二度と離しはしないよ」という歌詞で二人のムスビは強固なものになったと思っている。だが、それで本当に終わりだろうか?まだ残してきたものはないのだろうか?
二人がお互いの名前を聞こうとするとき、すなわち、ラストシーンで「君の名は。」のタイトルが空に吸い込まれていくときに「次」が見えてしまう私は、やはり、君縄病に憑りつかれていると断言できる。


2018.1.14 言の葉の庭3回目 @アポロシネマ 鑑賞記

すでに「秒速」の前段階で、著名フォロワーの方とは合流済み。お一方は、3桁鑑賞の名古屋方面の方。もう一方も、冬コミに出典されたことのある筋金入りの方である。そのいずれもがまごうことなきおっさん世代。新海ファンに至ったのはいずれも君縄からと思われるのだが、これほどのはまり度合いを持つ作品だとは作った本人も気がつくまい。ちなみに3桁君縄の方であっても、秒速/言の葉はスクリーン初対峙。それだけでも、彼がいかに「君縄」にははまったのかを如実にあらわすデータといえる。

1/14日曜日の言の葉の庭の1回目。
館内は、前日とは打って変わり、かなりの観客の入りを確認する。
日曜日、いい時間帯だからか、「新海」ブランドに惹かれたからか。とにかく多彩な観客の顔ぶれに当方も頬が緩む。カップル/ペア/グループ/家族連れ/老若男女。旧作にこれほど人が集まるのだ。これは興行主にしてもしてやったりってなもんだろう。

実は、この鑑賞回の時点で、ユキノの語った、歩く練習、というセリフがズバッっっと脳内にインプットされた。その後に語った、27歳の私は、15歳のころから何も変わっていない、というセリフがそれをうまく補完する。

ラストに至る、ゲリラ豪雨に見舞われた二人が、ユキノの部屋で楽し気に食事をするシーン。そして二人はいみじくも声を揃える。
         「今が、今まで生きてきて、一番幸せかもしれない」

なのに、ユキノの一言ですべてが壊されていく。なんで、そこは上から目線だったんだろう…
本当の気持ちに気が付くユキノ。だが今度はタカオの強がりがいじらしい。「あなたのことが嫌いです」。そこからの罵倒は、ユキノのHPを確実に奪っていく。そして、それは見ている観客をも、タカオの気持ちにさせてしまう。その煮え切らない、上から目線の、常に服従させておきたいだけの女性。すべてを看破されて泣きじゃくり、抱き付くユキノ。ここの表現・セリフは、正直胸を打つ。「新海誠展」でもこのラストシーンは繰り返し流れていたが、ここだけ取り出しても十分に感動できてしまうところが嫌らしい。

この作品も、一応すれ違っている風には見せている。だが、お互いが何の感情の発露もないまま別れてしまっている「秒速」の貴樹と明里とは少し違う。少し脱線するが、貴樹と明里は、あのまま結ばれていてもおかしくなかった。もっと言えば、中学生のころの自分に正直(立ち止まったまま)なのは貴樹で、裏切った(貴樹を選ばなかった)のは明里だともいえる。だが、それってどんな幼馴染でも起こりえることだし、現代の恋愛では、何の障害もなくゴールインできる方が稀有な存在である。
一方のタカオとユキノはどうであったか?年の差?学生と先生?そもそもが成り立ちようのない関係だったはずだ。その部分はあまり出さずに、最後は男と女の対峙にした。そう。それは、15歳のままのユキノが、やや大人びたタカオに抱き付くように見せたところでも明らかである。

タカオは、間違いなく自分の階段を歩いている。だが、ユキノはどうであろうか?逃げるように実家に戻ったユキノは、うまく教師をやっているようだったが果たしてそれが彼女の生きる道だったのか、どうか…彼と彼女が結ばれないのは半分仕方ないにしても、普通は逆になりそうな、生徒と先生の恋愛をアニメーションで描き切ろうとしたのは特筆に値する。

それでも、美麗すぎる描写が、二人の人間関係をくっきりとは浮き彫りにしない。むしろ、煮え切らなさにイライラするのだ。なんといっても、上級生に喧嘩を吹っ掛けたくだりがまだよく理解できない。それって必要な”行動”だったのか…抵抗することが男気だとするならば、すべてを受け止めて飲みこむこともできたはず。それをしなかったタカオの無分別さと青さが気になる。

初見のインプレッションは、『映像だけなら98点だが、総合だと75点くらいと言ったところか。』としている。実は、総合は少し上げたいと思う。理由は、ただ単なる別れが前提ではないからである。タカオはラストで「逢いに行こう」と言っている。彼も、自分の足で歩けるようになることを望んでいるのだ。そこに少しだけ救いが生じる。積極的になっていくタカオがユキノを本当に好きになっていけるのか?その未来の彼らに祝意を表して、83点まではランクアップする。でもすでに2017年版でも上げている通り、あそこまでしかランクは上がりようがない。これからいい作品が出てきたら、この作品のランクは急落するだろうことは覚えておいてもらいたい。

2018.1.14 秒速5センチメートル【初見】@アポロシネマ

日曜日の休みは本当に久しぶりだ。だから、というわけでもないが、この日は朝から鑑賞を決めていた部分がある。
実は、本作「秒速5センチメートル」は、年始のABCで深夜にやっていたのだ。つまり、敢えて見るまでもない、というところが実際である。
しかも、ブルーレイ上映。そんなにプライオリティが上がるほどでもなかった。
それでも見ようと思ったのは、やはり、スクリーンの魔力を知っているからだ。あの当時、賛否両論が喧しかったこの作品の持つものは何なのか、を知りたかったからだ。

さて結論から早速行こう。
まあ「君の名は。」を見た後でならこの作品の持っている主題に気が付くのが簡単だと知らされる。
それは「立ち止まっている」男の持つ、初恋のいじらしさである。
貴樹の心の中には、いつまでも明里がいる。種子島でも思われている人をきっちり袖にしている。でも、それはそれで仕方ない。幼馴染である二人の間には、その時の感情が消えずに残っているからだ。その一方、明里は、貴樹の呪縛を振りはらい、別の人と結ばれる。そして、それも仕方ないと思わせる部分がある。あまりに時間が経ち過ぎた・・・会えていないからである。

自分語りもないもんだが、かくいう私にも初恋なるものは存在する。だがそれは、誰にも告げたことのない、秘めた思いだけだった。それから私自身は愛だの恋だのとは無縁になっていく。それに代わるものが偉大過ぎたからだ。時にそれは勉学であり、仕事であり、経営であったり。気が付けば、まともにお付き合いしたのは数人、しかも行きつくところまですらたどり着いていない「付き合ったか」どうかすら危うい関係しか構築できなかった。
だが、彼ら…新海作品に出てくる男女二人を見ていて気付かされる。会うは別れの始まり、であり、それが当たり前なのだ、ということに。だから、「君の名は。」での奇跡の再会こそ、今までの型を打ち破った表現と受け取れるのだ。
その一方、本作では貴樹が、「言の葉」では特にユキノが立ち止まり続けているから合えない・結ばれないままで終わってしまったのだということに気が付く。瀧は、曲りなりでも、逢いに行く方向に動き出している。そして奇跡といえる、「そういう気持ちに憑りつかれた」瞬間を作ることができた。だから、二人の間のムスビは強固なものになり、ラストシーンが導出されているのだ。

新海氏はそれまでの「立ち止まり続ける」主人公であっては、今までと同じだと考えたのは間違いない。「前に進む」ことこそが至高である、と気が付くのだ。そして、それは大衆の求めているものと合致したのだということを観客動員で気づかされる。すれ違ったまま、追い求めないままの主人公ではいかに絵がきれいであっても、受け入れられないのだ。
ユキノのいった「歩く練習」というセリフ。これが私に大きなヒントを与えてくれた。そう。君縄以前の登場人物たちは、前に進むことを拒んできていたのだ。しかし、瀧は前に進んだ。三葉を追い求めた。だが、名前を忘れるという必然にして、痛恨の結果にとらわれる。

本作の持つ甘酸っぱさ、二人のある意味、別れの象徴とでもいうべき踏切のシーン。逢えない、すれ違うだけの恋愛。だが、そこにある二人の感情は、決してすれ違ったままではないと思い知らされる。貴樹が前を向き、明里の呪縛から解き放たれた時、彼のストーリーはまた新たな輝きを放つのだ。

確かにここまではいわば「新作」として評しているわけではない。時系列通り…2007年にこの作品を見ていたら、ここまで絶賛できるとは思えない。だが、見直しという一種の振り返りを経てもなお、この作品は特筆すべき輝きを持っている。凡庸になってしまった高校部分の表現は、主人公が入れ替わったことも含めて、ややマイナスすべき点と見る。あえて3部作とすべきだったか、どうか。いろいろ考えると、ラストシーンの表現の是非以前に全体的な甘さが見て取れる。89点あたりがいいところだろう。
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