多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

2021.4.18 AVAですよw 「エヴァ」鑑賞記

今日は、ヒトカラも止めて、「天気の子展」に向かった。
→ブログにしたためるほどのことはなかった(十分知ってた内容だったし、意外にいいところとか解析したいところとかがあっさりだったのが意外)ので、一応、当方のツイートの転載を感想に代えさせていただく。

昼ご飯も食べて、さて、と映画脳にスイッチ。
だが、鬼滅はほぼ壊滅状態。コナンの2回目は、さらに突っ込みどころを見つけてしまいそうで、及び腰。「ガルパン」ももう一回くらいは、と思いつつも、そもそもラストシーンだけが収穫といってもいいだけに、これまた二の足を踏む。そして、「シンエヴァ」は検討リストにすらのぼらない。
難波のTOHOも、梅田もそれほどではないのだが、予告を見てビビッと来ていた作品の上映を知った。それが「AVA」と書いてエヴァと読ませる、アクションものだった。

昼中回ではあるものの、館内は閑散そのもの。30人程度で、やや男性優位、40代後半を平均と推定した。
ジェシカ・チャステインが演じるのは、組織からの依頼で確実にターゲットをしとめる暗殺者の役。この線の細さとのギャップを楽しむという点においては、いいキャスティングだと思う。
ターゲットに「なぜ殺されるのか」を執拗に聞くエヴァ。そしてその癖は、組織の元にも伝わってしまう。これが、エヴァと組織との仲違い(中盤から、エヴァとその保護者的立ち位置の組織の重鎮は命を狙われる)の理由と見られるのだが、恐らく、理由を知ることで任務の正統性を担保したかったのかもしれない。
だが、画面上二人目の殺害依頼の際に、手違いが起こる。何とか窮地は脱したエヴァではあるが、ここからノンストップ、とまではいかないものの、行く先々で命を狙われていくことになる。
この作品の意外性は、彼女の家族の描写にかなりの時間を当てていることにある。妹、母親に、妹のフィアンセ。彼はもともとエヴァと相思相愛だったのだが、エヴァの薬物依存や軍隊入隊などが距離を作ってしまい、妹と昵懇になってしまっていたという経緯がある。
殺し屋にだって家族はいる。そこを書きたかったところは否定しないが、そういうことは、どちらかというと作る気満々な続編でじっくりと書いてもらいたかったところだ。

クライマックスで恩師を殺されたエヴァと、新たに組織のトップに立った男性とのバトルシーンが幕開けるのだが、前半で見せたガンアクションも、格闘術も何かしら手を抜いている、というか真剣さが感じられない。一対一のタイマンにした、組織のトップの姿勢は褒めるべきところかもしれないが、普通は手下を何人か連れてくるべきところであろう。組織内部の抗争だから、賛同者が得られなかったせいかもしれないが、このあたりの凡長ぶりは予算のせいか、脚本か、その両方か?

読了感があったと感じたが、ファーストインプレッションの93点から90点にやや下方修正する。
彼女の家庭のこと、元婚約者のこと、こういったことに落とし前をつけることが一作目であり、組織からはみ出し者になったエヴァが、付け狙われつつも生きていく2作目を予感させるラストシーン。まあこういっちゃあなんだが、家族のことに言及したアサシンものって、そう多くはないんじゃなかろうか?
この作品で女版ジョン・ウィックを監督が目指しているのかどうかは別にして、何もかもが中途半端な書きようになってしまっている(オープニングタイトルでエヴァの生い立ちをスライド風に見せたのは、あまりいい演出とは感じなかった)全体像がぼんやりとしてしまったのは残念だった。

「ウマ娘」の大大大成功を考える

日本を全く知らない外国人がいたとして、日本のアニメーションを見せたら、卒倒してしまうのではないだろうか?
艦これ、はたらく細胞、刀剣乱舞、けものフレンズ……これとは別に、女体化(戦国乙女など)も合わせれば、「人間化している」特に「女性が幅を利かせている」設定の作品の比率は徐々に上がってきている。

実在する競走馬の名前(馬主の許可を得ている)を使い、全員を女性のウマ娘(年齢という概念はなく、いつまでもトレセン学園という学校に在籍している)にさせたうえで、育成する「ウマ娘 プリティーダービー」のソーシャルゲームのダウンロード数が、あっという間に500万を突破したようだ。
4/8の記事。

育成したい往年の名バ(世界観を統一するため、一部馬という漢字を使いません)を選び、さらにサポートしてくれるチームを結成、スキルやステータスを伸ばし獲得することで最終目的まで突っ走るというスタイルなのだが、このゲームの凄さはそんな簡単な言葉では言い表せられない。
そもそも、アニメーションの一期は2018年で3年前。アニメ先行で進んでいたゲーム開発は2018年冬のリリース延期の発表から、長年にわたって中止されていた。
→2018年冬にリリース予定だったことはニュース記事からも探せる。
2021年春に満を持してリリースされたわけだが、オールドファン(ナリタブライアンやらメジロマックイーンやら)になじみの深いウマ娘を育てられることもあって、その世代に訴求したのか、と思いきや、この作品の陰の功労者は、そんな名バではない。
ゴルシことゴールドシップの自由奔放さがかなりポイント高いと踏んでいる。G1クラスで勝てば、蹄鉄をこちら(育成している我々プレイヤーは、「トレーナー」と呼ばれている)に向けてドロップキックを食らわせる、言っているセリフが時々意味不明、むらっけもあるのだが、追い込ませたらその末脚は天下一品、と、まるで実物の彼をどうやって取材したのか、と思われるエピソードまで盛り込まれているのである(当然現物の馬は言葉をしゃべらないが、口取り式=GI勝利の時の記念撮影の際に暴れて、何人かを血祭りにあげたことは有名)。
ツイッターの中では、ゴルシに煮え湯を飲まされた(6歳時の宝塚記念で一番人気を背負いながらの大幅な出遅れ=馬券が一瞬にして紙くずになった事件)人たちも加わり、一躍人気者に。ここからは、実際のゲーム性の秀逸さ、一筋縄ではいかない育成(体調不良=頭痛で表現 や、連続でトレーニングできない仕様など)、勝った時に見られるウイニングライブの絢爛ぶりなど、嵌らせる要素はいっぱいだった。

かく言う私も「スマホゲーに課金なんて」と思っていた過去が懐かしいくらいには課金させてもらっている。それでも、なかなか最終目標まではうまく到達できないこともある。
半月に一回のイベントやニューカマーが増える企画などで、しばらくは安泰だろう。何しろ、現実の名馬は、こんな程度しかいないはずがない。馬主の都合上、ゲーム登場がNGになっている名馬もいるにはいるが、それを補って余りあるウマ娘たちから、目が離せない。

車いすおばさん考 世間に対する敵対心を造成させたのは誰か

とあるコラムニストさんのブログが物議をかもしている。
いまだに擁護派・憤慨派に分かれた論調は続いているし、とうとう本人も「中傷はやめて。そろそろ幕引きにして」とSOSを発信するまでになってしまっている。

端緒となったブログそのものは、本人のページからは削除された模様だ。
→それでも、その記事をもとにした論調はちょっと探せば出てくる。J-CASTニュースから
当方は、まずもって、同じ立場に立ち入れないうえに、本人でもないし、いろいろ彼女の心情を慮ることも難しいとみている。その上で、この書き方をしたことの根底にあるものは何か、を探ろうと思ったのだ。

まずタイトルからして振るっている。
「JRで車いすは乗車拒否されました」。
ほほうっ!天下のJRが、障がい者にそんな対応をしやがったのか!と、タイトルだけしか読まない人なら思っても不思議はない。ところが読んでいくうちに小田原駅での丁丁発止、乗換駅の熱海駅の駅員の尽力が伝わってくる。そう。彼女はちっとも「乗車拒否」(拒否という言葉をどうしても使うとするなら、「介助拒否」「来宮までお供できない」である。そして「出来ない」ことを理由に拒否もできる)されていないし、目的地には到着しているし、なんだったら、帰りには到着駅に駅員はスタンバイしていたこともわかっている。

コラムニストさんだから、タイトル命、読んでもらうには煽情的に書いたことは理解している。しかし、書いたことと結果とは大きなずれがある。0か100かくらいの大きなものだ。書いていくうちに気が付いていたかもしれないが、「乗れているのに乗車拒否はおかしいな」と思っている感じもない。
当方の私感ではあるが、タイトルをそのままにしたのは、「初期対応のまずさ」が彼女の心を大きく傷つけている、「目的は達成されても心情的には拒否する気満々」だったと(本人が)感じたからタイトルとして残したのではないか、と思うのだ。これなら一応のつじつまは合う。

そうなってくると、最終的には感情論にならざるを得なくなり、意見が真っ二つに分かれてしまうのだ。さらに傲岸不遜な物言いだったという小田原駅でのやりとりの模様がツイートされたり、過去のとんでもない事案も暴露されるなど(夢の国子供料金入場は過去の武勇伝で、時効になっているとはいえ)、これまでの"業"が自分にマイナスに作用してしまう。
彼女がこういう態度や行動に出なければならない「本当のところ」を知らないと、簡単に糾弾も批判もできない。それは、先天性の病気で歩行もままならない、マイナススタートの彼女の持つ心の闇がそうさせているとするしかない。

彼女のブログの筆致からは、自分をよく見せようという脚色は感じられない。「してもらって当たり前」「障がい者様のお通りじゃ」というストレートな物言いがひしひし伝わってくる。世を恨み、周りに当たり散らす。傍若無人な駅のベンチに靴ごと上がって寝転ぶ自分の子供たちの写真を嬉々として挙げる時点で、自分たちは特権的で何をやっても許される、障がいを理由になんでも拒否することは許さない、という明確な意思を感じ取るのだ。
彼女は当然障がい者を代表していない。だから「電動車いすに乗ってる奴みな自己中」と考えるのはおかしな話だ。しかし、彼女のせいで「面倒くさい人たち」「クレーマー」という意識を社会が持ってしまったことも事実である。無関係なほかの、善良で問題を起こそうなんて考えていない障碍者も同じ目で見られ、相互理解が進まず、さらに世間に対して憎悪の念を増幅させる。

分断の連鎖を断ち切るのは、いまだにJRの対応に疑義を唱える本人の意識改革しかないと思うのだ。「人は一人では生きていけずに誰かを求めてしまう」とは、当方が一時期お熱を上げていた某声優の歌う名曲の一節なのだが、支えられているという感覚が彼女にはないのかもしれない。心まで障がい者になってしまっている彼女は、何かと戦っているただただ痛い残念な人のままで人生を終わらせるつもりなのだろうか?
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