多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

2020.7.23 塚口サンサン劇場一日チャレンジ 「天気の子」鑑賞記

「君の名は。」が映像に音楽を合わせる手法でつくったとするなら、この「天気の子」は、音楽の提示が先にあって、映像を合わせていく手法になっているところである。新海氏がプロットをRADWIMPSの野田洋次郎氏に提示し、そこから上がってきたのが「愛にできることはまだあるかい」と「大丈夫」だったということは、小説のあとがきにも書かれている(p.298-300)。そして新海氏は、ラストシーンに充てるためだけに名曲「大丈夫」を使うことに決めたのだ。まさに帆高と陽菜が分かれてから3年後の春に田端の坂道の途中で出会うこの上ないエンディングとするために。

いま、特別音響上映を2回見、音に合わせる新海スタイルとはどうだったのか、を考えた時に、若干新海氏の作家性がそがれてしまったんではないか、と確信し始めている。野田氏の音楽に引っ張られ過ぎてしまった、といえる点だ。

歌詞入り曲がエンドロールまでで6回/5曲。「君の名は。」の場合は、オープニングの「夢灯籠」、30分過ぎの場面転換曲「前前前世」、クライマックスの「スパークル」、「なんでもないや」は2バージョン作ってラストにつなげられている。5回/4曲であり「天気の子」が一曲多いのだ。
クライマックスで2曲……愛にできることはまだあるかい、とグランドエスケープ……使わざるを得なかったことに新海氏が野田氏に遠慮したかのような感じを受けるのだ。

帆高が代々木会館で立ち回るシーンは、歌詞入りでなかった方がよかったかもしれないし、後半ミュージカルかのごとく歌詞入り曲の比率が高くなるのはいただけないと感じている。お気づきの方も多いかもだが、歌詞がかなり前面に来てしまっているのだ。
それがもたらすのは主人公たちの感情を見えにくくする(歌詞に引っ張られる)効果だ。事実、しゃべらなくなった後、「夢にぼくらで帆を張って」のところがアガるように感じるのは、歌詞がすべてを代弁しているからで、それだけ力強いから余計に彼らの決断を応援したくなるのだ。

音響が調整されていると、こういった今まで気が付かなかった部分まで浮き彫りになる。音楽と映像というものは、時として相乗効果もあるかもだが、出張りすぎることでお互いの長所を打ち消し合ってしまう諸刃の剣であることも知っておく必要はあるだろう。

「天気の子」38回目で塚口一日チャレンジは幕を閉じる。一日最多の5スクリーン鑑賞。まあ、キチ縄さんの足元にも及ばないが、入り浸ることもできる体になってしまったことに苦笑する一日となった。


2020.7.23 塚口サンサン劇場一日チャレンジ 「君の名は。」鑑賞記

塚口サンサン劇場の特別音響上映の成果を知っているものからすれば、作品ごとの調整は言うに及ばず、どこに特化するかをきっちりと見極めているところにあくなきまでの探求心を見出すのだ。
だから、本当のことを言えば、19日の日曜日に行きたかったのだが、実に2年ぶりのダイビングを予定に入れてしまい撃沈。と思ったら、7/23の海の日の休日が利用でき、しかもその日がラストとなれば、行かないで済ませられるわけがない。
塚口一日チャレンジの原動力になったこの作品。51/52回目を見るわけだが、まあ、その微に入り細に渡る調整の数々はあの!! レジェンドたるキチ縄氏をもうならせる見事なものだった。

爆音で感じた、開始1秒で感極まることはなかったにせよ、その言葉の端々や音楽だけを盛り上げる微細な調整、あの「ギーーーーン」音ですらそのときどきで表情を変えてくるから面白いし、びっくりする。
何といっても彗星落下時の音響は、「ここだけは聞いてやってください」とスタッフが言いたげな渾身の調整。あの10数秒は劇場でしか味わえないし、何だったら、すべての鑑賞の中でも一二を争う出来であるといっても過言ではない。

クライマックスもそうだが、やはり、瀧の慟哭はいつ聞いても泣かされる。彼が追い求めたものは、ただの「あいつ」ではなく「君」であり、「三葉」だったのだ。
「お前は、誰だ?」
文字にした自分のノートの落書きと同じ言葉をつぶやくこの伏線効果。トシキに言われるそのセリフと、中2の時に自分が放った「誰、お前?」ともリンクする畳みかけのマジック。脚本の妙がこういったところにも表れる。
映像に音を合わせた本作。だからそのシンクロ度が半端ないのと同時に、魂を揺さぶられるのだ。音に特化したからこそ感動が止まらなくなる。当然の結末といえるだろう。

52回目鑑賞前に、ついに!!!
レジェンドたるキチ縄氏とエンカウント。ツイの中でも絡みの多い氏だけに、一度ご尊顔は拝しておきたかった。びっくりするほど「オタク」とは縁遠いただのシンカイヤーであり、ユアネイマーであったことの驚きが上回ってしまった。
新宿ですっぽかされたことを覚えておいでだったこともびっくりだ。まあ、彼の中でも申し訳なさがあったからこその想いだったのだろうか。あそこまでの投資をして君縄鑑賞部屋を作り、全国を飛び回れるバイタリティーには脱帽だが、そこにあったのは「この若さですべてが叶えられる財力と時間の余裕」を感じさせたところだった。

2020年7月23日。ただの「海の日」だけで終わらない最良の一日になったことは間違いない。


2020.7.23 塚口サンサン劇場一日チャレンジ 「娘は戦場で生まれた」鑑賞記

私の中で「一日劇場に入り浸った」経験は全くなかった。それはひとえに「何本も見ることは不可能」という概念からだった。
ところが、それに類することも時々でやっている。例えば年始の劇場訪問だ。ただそれでも「朝から晩まで」とまでにはならない。
新海作品のブロックバスターたる「君の名は。」「天気の子」の実質二本立てがおしまいになる7/23は、あろうことか祝日。同じ箱での2本2回にプラス一本で一日劇場にいることができるのだ。

その朝一の一本に選んだのが、ドキュメンタリー映画の「娘は戦場で生まれた」だった。
シリア・アレッポの反政府活動家の女性が撮り続けた多くの記録映像がソースであり、その中にあるのはこれまた活動家であり、医師の顔を持つ男性との一粒種・サマに残した映像という観点でも語られる。
所詮内戦であり、私を含めてその実情を知っている人はそんなに多くはいないはずだ。反体制側からの報道ばかりに彩られるのは仕方ない(つまり、空爆をして無辜の民を危機にさらしている側が悪)としても、「戦わないで済む方策」というものもあってしかるべきだったと思うのだ。
反体制側がそれこそお山の大将よろしく、誰の援助もなく戦い続けられるわけがない。一方、政府側は、もともと親交のあったイランやロシアの後ろ盾を得て、勢力を増していく。それが理不尽な空爆や殺戮を容認してしまうのだ。
死ななくて済んだ命に対する無力感がスクリーンに充満する。それでも、とある「生」のシーンには言葉を失う。生と死は隣り合わせの戦場の中にあって、非戦闘員の日常がかくもあっけなく奪われ、常に空爆の恐怖におびえる日々がそこに描かれるのだ。

とはいうものの、見終わって釈然としないものも感じ取る。娘・サマのためにアレッポに残らない/少なくともサマを戦場にとどめ置かない(一緒に行動しない)ことがサラッと言われるにとどまっていたからだ。母の選択としてそれが正しいのか、どうなのか?自分たちはエンドロール上では生き残ったわけだし、のちに妊娠して生まれた男の子ともうまく生活していることが言われてほっともするが、最悪の結末だって用意されていたはずだ。そう。映像に映されていたほかの家族と同様な、子だけが先に死ぬ結末が。
結局このアレッポの戦いが残した現実は、多くの市民の犠牲と、美しかったはずの商都・アレッポのがれきと破壊の限りを尽くされた町並み、それに倍する、敗北という名の結末だということだ。国どおしの戦争であれ、内紛が拡大した内戦であれ、そこにあるのは無関係な人々が翻弄されるだけに終わることである。
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