多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

久しぶりのPV1桁キターーー

あの某禿ちゃんの韓国推しで、五輪支援寄付しようと思っていたのも急速に萎えてきている今日この頃。

→猪瀬知事なら応援しようと思っていたのだが、頭が変わったことでもあるし、タモさんにでも変わってから仕切り直ししますかね。今の3万PV強を寄付するのは、委員会の面々には申し訳ないけど、心情的に無理ですわ。それでなくてもあーだこーだと五輪やりにくい、とか言っているくせに、あの発言ですから…

まあ、PVを寄付の財源にしようというのは、当方のアイディアでもあり、だれからも強制されたものでもないから、自由意思でしたりしなかったり、は私の胸先三寸、なんで、これからはあんまりPVにこだわらないで記事作成していきたい。

とはいうものの、ここまで(200タイトルはあるだろう)記事が蓄積されたのに、久しぶりのPV1桁記録で、書きたくなってしまった。ちなみに、5月以前の記録は残していないので、いつからぶりかは不明。ていうか、一桁なんて本当に半年ぶりくらいではなかろうか?

3桁連発の2か月前が嘘のよう…もしかしたら、うそだったりしてwww

2014.8.6 69回目の原爆忌に思う

副題:”誰の”、”何に対する”あやまちをくりかえさないといっているのか?

8月は、はっきりいって、暑いだけではなく、テレビでは、特にNH○が、終戦の日前後を含めてこれでもかといわんばかりに嫌戦ムードを盛り上げる、自虐史観に基づいた番組ばかりやってくれるもので、陰鬱な空気が漂ってしまうのが堪えられなかった。
そしてその口火は、8月6日の、広島の平和記念式典の中継が実質的なスタートラインである。投下時刻の8時15分に黙とう。夏空に恐ろしい光量を放った爆弾は、すさまじい熱線と爆風でもって無辜の民を殺戮したのである。

式典が行われる平和記念公園には、慰霊碑がある。そこにはこんな文言が刻まれている。

安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから

実はこの短い文章、言いたいことがよくわからない、と思われる方はどのくらいいるだろうか?ちなみに、私は「誰に対するメッセージか分からない」と考える一人である。

例えば、この「過ちを繰り返さない」を反戦のメッセージとするならば、残念なことに世界各国ではあちこちで戦争は起こっているし、しかも必ずと言っていいほどアメリカがかかわっている。もちろん日本はPKO部隊の派遣こそあれ、戦争には一切無縁である。
では、どこの何が「過ち」だったのか?原爆を使ったことか?日本が戦争を仕掛けたことか?結果として負ける戦になってしまったことか?・・・

仮に日本に「過ち」があったとするならば、原爆投下を防げなかった点にある。ここは疑いようもない。だが、そもそもアメリカは原爆を使う必要が果たしてあったのだろうか、と考えるとき、米兵の安全と引き換えに敵国民とはいえ、非戦闘員を大量殺戮したこの行為を正当化できるとは到底思えない。それを過ちだとしても、日本がそれを諌めることは無理な相談である。
主語と目的語がないために、言いたいことが全く伝わらない碑文…こう訂正と補正を施したいものだが、いかがなものだろうか?
 
 安らかに眠って下さい 日米軍が犯した過ちは 繰返しませぬから

→本日は、当方も大好きな国士・ねずさんのひとりごと より、8月6日のことに関しての記事をリンクさせていただきます。ねずさんのひとりごと 8月6日 広島への原爆投下の日
彼なりのこの碑文に対する想いがつづられていますので必見です。

疑問しか浮かばない「告白」…朝日の誤報問題を俯瞰する

今日・8月6日は今年で69回目となる原爆忌の日でもある。世界で初めて原子爆弾の”実験場”にされた広島の人たちの無念さを思うとき、鬼畜米英、とまで言わなくても、戦争というものはこういう無意味な、そしてむごいことでも平気で出来てしまう精神構造にさせられるのだと感じずにはいられない。

その一日前に恐らく、天地がひっくり返ってしまうような告白をあの大新聞社が紙面で暴露、蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。
内容は、みなさんご存知の「従軍慰安婦がらみ」のもの。一人の証人の著作物をノンフィクションと断定し、裏どりも行わないまま、強制連行という文字が独り歩きし、それが積もり積もって「20万人もの慰安婦が強制連行」という、伝言ゲームもびっくりの変遷を経てしまったわけだが、その入り口にあたる資料がフィクションであり、でたらめであったことをこの期に及んで訂正したというのである。

もうすでに皆さんの方が情報を得ているので詳しくは書かない。
しかし、私が問いたいのは「なぜこのタイミングなのか」ということである。吉田清治というただのフィクション作家の言をまともに受け入れ、それがあたかも史実であったかのように書き綴ってきた新聞社。もちろん、これを真に受けている人たちだっていたことだろう。しかし、「間違ってました」ということを最初から…少なくとも、いろいろな検証書籍が出始めた20年ほど前から、この内容がでたらめであることに気が付いていたと考える方が妥当である。
要するに「謝罪するには遅きに失している」し、せっかく30年以上も嘘をつき通してきたのだから、廃刊するまでウソを守り続けていればよかったものを、どうして今年に「間違ってました、テヘペロ」なのかがわからないのである。

「過ちては即ち改むるに憚ること勿れ」は、論語にも記されている名文である。それができずに、今まで偉そうに政府批判をしてきた左傾新聞社の、思いもよらぬ”白旗”に、これには絶対裏が、罠がある、と思わずにはいられない。
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