多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

2020.7.26 山田・國村の二人の「ステップ」 ステップ鑑賞記

公開からこっち、口々に「いい」という評しか聞こえない、「アルプススタンドのはしの方」。
そんなことがあるかいな、と思いつつ、梅田ブルク7での2回を認める。ブルクでは、意外にも、シネ・リーブルで見るつもりだった「グランド・ジャーニー」も、「ステップ」もどちらもやっている。
そうと決まればこの3タイトル。グランド→ステップ→はしの方 とスケジューリングもできて、いざ劇場へ。

グランド・ジャーニーはちょっとしたあたりであった。
その勢いのままに、これまた評価の高い「ステップ」を見ることにする。山田孝之といえば、マルチな才能をほしいままにしている俳優であり、プロデューサーである。とくに「デイアンドナイト」にしっかり関われるほど、嗅覚というものはすぐれているとみていいと思う(WIKIにプロデュース実績が書かれてないのはいかがなものか?)。
色物俳優という見方が多い中で(ヨシヒコとか、全裸監督とか)、普通の山田孝之を見たい!と言う衝動もあって、一躍鑑賞したい作品のトップになっていた。

昼イチ回ということもあり、ブルクで久しぶりに見る△表記。無理もない。4番は満席95人。半数しか入れないとなったら、50人は無理。結局前の方に空席が目立った程度で40人弱の鑑賞となる。カップルがちょっと多め、ソロは、男性優位なれど女性もほどほど。平均年齢は40代後半とした。

観る前では、私自身は、山田孝之演じる武田の孤軍奮闘な子育て日記が全編にわたって展開されると思っていた。6章に渡って描くわけだが、生後1歳とちょっとで急死した妻にかわり子育てをする、一周忌からスタート。第一章は、そういうわけでいきなり2歳程度からスタートするのも納得と感じたのだが、そのラストの保育士の考え方に少しだけ違和感を感じてすっと醒めてしまった。
2章/3章は、小学校低学年の父子の葛藤が描かれる。小1の母の日の似顔絵のシークエンスは、娘・美紀の論破で私も感じ入らされた。その通りだし、彼女は嘘は言ってない。生身か写真かの違い、そして片親しかいない現実にさらされている彼女のセリフはすべてが重いのだ。
美紀の達観したものの考え方、あるいはより大人びて見える瞬間が、武田には危うく感じられたこともあっただろう。そして、横浜に居るおじいちゃんの存在は甘えられることにもつながっていく。
5章/6章と続く後半は、義父・村松との絡みが多くなる武田。とある料亭での会話や、病室でする武田の問いかけの場面は、説明に過ぎるきらいもあるが、それでも我々を納得させるに十分な内容の語りであった。

映画ブロガーのモンキーさんに言わせると、「マスクがびしょびしょになってしまった」そうなのだが……いや、私もウレタンマスクでしたが、正直ほぼ同じ状況になりましたぞw→「モンキー的映画のすすめ」記事はこちら
特に私的には後半の方により感涙ポイントがあったように思う。生にもがく前半より、死に向かっていく後半でより多く泣けたのは、やはり当方がその方向に片足突っ込んでいるからかな、と思ったりもするが、それもこれも、名優・國村隼の演技によるところが大きい。

というわけで得点は辛めの95点とした。なぜか?「泣ける」とわかっている作品だから、お涙頂戴に持っていくいやらしさが少々鼻につくからである。
子育て世代にはあるあるがあるし、当然義父を含めて高齢世代を送らなければならない世代にも深く刺さること請け合い。私は、卒業式の当日、美紀が「母が最後に残した」赤ペンの線に肉付けをしている「幹」をなぞったところで嗚咽を禁じえなかった(今書きながら、木の「幹」と名前の「美紀」がダブルミーニングじゃん!!!)のだ。原作なしでこの作劇だったら、確実に100点なんだけど、ね。
山田孝之の常識的な芝居は、むしろ色を出さないことに執着したかのよう。おかげで、後妻に収まる広末の自己主張しない演技も殺さないし、子どもたちのはっちゃけた天真爛漫な姿がより引き立つ。円熟味を増してき始めた山田氏の今後が非常に気になった作品だった。

2020.7.26 当たり3連発 「グランド・ジャーニー」鑑賞記

公開からこっち、口々に「いい」という評しか聞こえない、「アルプススタンドのはしの方」。
そんなことがあるかいな、と思いつつ、梅田ブルク7での2回を認める。ブルクでは、意外にも、シネ・リーブルで見るつもりだった「グランド・ジャーニー」も、「ステップ」もどちらもやっている。
そうと決まればこの3タイトル。グランド→ステップ→はしの方 とスケジューリングもできて、いざ劇場へ。

到着してみると、大きいお友達御用達的な、「劇場版 ひみつ×戦士 ファントミラージュ! 映画になってちょーだいします」が終わったところ。とは言っても見てもらうべき女児層の来訪も認められたのでほっとする。もちろん、見る気はありません(スケジュール上、この作品の朝イチ回は押さえられたのだが)w
ようやくのことで入場開始。7番は最上階なのだが、エスカレーターの長いこと。朝イチながらそこまで鑑賞しないかなと思いきや、カップル4組を含めて20人弱が鑑賞。平均は40代後半とした。

チラシとかを見ると、「少年が渡り鳥をうまく先導して、渡りを成功させる」という側面しか見当たらないし、「それを見させる」ことが第一義だから、どうしてもそれ以外のことはなおざりになっているんじゃないか、と思ってしまう。そうなった経緯とか、人間関係とかはどう描かれるのか?比重はどうか?その部分に期待半分でいたことは間違いない。
例えば、実の父親がいるのにもう一人の男性と関係を持つ母親。きっちり離婚しているわけではない、フランスらしい家庭事情がうかがえる。のちに息子ラブな母親に愛想をつかした形で男性は出ていってしまうのだが、このあたりの説明不足は、欧米人なら納得の一節なのだろう。
序盤で父親が公印を簡単に持ち出せてしまう、ざるな管理体制といい、渡りを始めるべく到着したノルウェーの司法当局の及び腰といい、見ていて、そんなに都合よくすべてがうまくまとまるんかいな?と思わずにはいられない。

だけれども、行きがかり上、息子・トマが群れを先導しなくてはならなくなった時、母の愛情はすべてに優先した。だから父親に毒づき、行方不明の息子の安否を気遣い、時に激しく動揺する。ひょんなことから動画が投稿されたことで居場所がわかった時の彼女の喜びようといったらない。
トマも、多くの人の手助けと、少しの悪事で持って、計画を完遂するわけだが、そこに主題はない。心が離れ離れになった一つの家族が、目標に向かって一致団結していき、絆を深めていく作品だった。

ツイッターのファーストインプレッションでは、94点とした。
トマの登場当初の顔つきと、エンディングの顔つきで、成長の度合いがうかがい知れる。彼は間違いなく、アッカをはじめとする雁たちの母親であった。湖面に浮かんで鳥たちと戯れたり、嵐ではぐれかかったアッカと再会したりするシーンは、否が応でも涙腺が反応してしまう。
何より、渡りを完遂した後の家族が抱き合うシーンも感動ものだ。「喜望峰の風にのせて」みたいな、タイトル詐欺にならなかっただけでも十分だったし、その後日談的な「ノルウェーに帰還する」渡りが人工的に成し遂げられた結末あればこそ、この作品は完成されたものになる。
群れの中に一羽だけ別の種類の雁を混ぜてあったのも、結果的に意図した方向に持っていけた。差別・区別に至らない(トマ自身は、アッカを溺愛していたようだが)人為的な渡りに別の種類の鳥の混入はむしろ好都合だっただろう。
正直ロードムービー的であり、「給油」「食料」という観点で見ると都合よく行きすぎたきらいはあるのだが、家族の再生の物語だから、そちらを詳しく描かなかったところに監督の矜持を感じ取った次第である。

2020.7.23 塚口サンサン劇場一日チャレンジ 「天気の子」鑑賞記

「君の名は。」が映像に音楽を合わせる手法でつくったとするなら、この「天気の子」は、音楽の提示が先にあって、映像を合わせていく手法になっているところである。新海氏がプロットをRADWIMPSの野田洋次郎氏に提示し、そこから上がってきたのが「愛にできることはまだあるかい」と「大丈夫」だったということは、小説のあとがきにも書かれている(p.298-300)。そして新海氏は、ラストシーンに充てるためだけに名曲「大丈夫」を使うことに決めたのだ。まさに帆高と陽菜が分かれてから3年後の春に田端の坂道の途中で出会うこの上ないエンディングとするために。

いま、特別音響上映を2回見、音に合わせる新海スタイルとはどうだったのか、を考えた時に、若干新海氏の作家性がそがれてしまったんではないか、と確信し始めている。野田氏の音楽に引っ張られ過ぎてしまった、といえる点だ。

歌詞入り曲がエンドロールまでで6回/5曲。「君の名は。」の場合は、オープニングの「夢灯籠」、30分過ぎの場面転換曲「前前前世」、クライマックスの「スパークル」、「なんでもないや」は2バージョン作ってラストにつなげられている。5回/4曲であり「天気の子」が一曲多いのだ。
クライマックスで2曲……愛にできることはまだあるかい、とグランドエスケープ……使わざるを得なかったことに新海氏が野田氏に遠慮したかのような感じを受けるのだ。

帆高が代々木会館で立ち回るシーンは、歌詞入りでなかった方がよかったかもしれないし、後半ミュージカルかのごとく歌詞入り曲の比率が高くなるのはいただけないと感じている。お気づきの方も多いかもだが、歌詞がかなり前面に来てしまっているのだ。
それがもたらすのは主人公たちの感情を見えにくくする(歌詞に引っ張られる)効果だ。事実、しゃべらなくなった後、「夢にぼくらで帆を張って」のところがアガるように感じるのは、歌詞がすべてを代弁しているからで、それだけ力強いから余計に彼らの決断を応援したくなるのだ。

音響が調整されていると、こういった今まで気が付かなかった部分まで浮き彫りになる。音楽と映像というものは、時として相乗効果もあるかもだが、出張りすぎることでお互いの長所を打ち消し合ってしまう諸刃の剣であることも知っておく必要はあるだろう。

「天気の子」38回目で塚口一日チャレンジは幕を閉じる。一日最多の5スクリーン鑑賞。まあ、キチ縄さんの足元にも及ばないが、入り浸ることもできる体になってしまったことに苦笑する一日となった。


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