多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

2013年09月

「純と愛」と「あまちゃん」 比較検討倶楽部(終) 最終回を比較する

皆さんが抱く「最終回」のイメージはどういうものだろうか。
子供のころ、好きだったアニメーションが最終回を迎えるとき、それこそ正座して、一時も目を離さず、焼き付けるかのようにしてみていた記憶がありありと目に浮かぶ。
だから、最終回がとんでもない演出や「これでおしまいってか?」と目をこすってしまうようなふざけたものだったりした場合に、今までの応援が無に帰すようにさえ思われ、がっかりしてしまうことも度々あった。その背景には「打ち切り」という突然死、つまり物語を正常に終わらせないことによる無理やり感と、整合性が取れないことから来る矛盾がそうさせているのだと思う。

とどのつまり、「終わりよければすべてよし」なのである。『あまちゃん』の最終回を見終えて、そして、今この記事を書こうとして「純と愛」の最終回を見比べて、最終回の持つ意味がどれだけ重要なのかを感じずにはいられない。

何しろ、東北の復興は道半ばどころか、端緒にたったといえるかどうかというレベル。その中で、お祝いムードしか感じられないオープニング。周りの人たちも笑顔、えがお、笑顔。海女の浜でも、ウニは豊漁。そして、架空アイドル「潮騒のメモリーズ」の復活で、最終回は最高潮を迎える。鉄道が復活したことを自分のことのように喜ぶ地元の人。元気を、勇気を与えることの出来る列車の底力をまざまざと感じてしまったシーンでもある。
ラストシーンは、ユイとアキが、長いトンネルを抜けたところでエンド。「長いトンネル」が復興にいたる長い道のりであり、出口が新しい東北をイメージしている、分かりやすいメッセージ。そこで終わらせるあたりがすばらしい。

この良作を見終えてから、『純と愛』のラストを見るのは苦痛以外の何者でもない。ぼろぼろになったままのホテルではなく、なぜか断崖絶壁での復活宣言。心情の吐露という意味では悪くはないとはいえ、最終回にすることか、とこの時点で一気にボルテージは下がっていく。何しろ、ホテルをそのままにしておくはずがない、復活に向けた最後の一押しが必ずあるはずだ・・・引っ張るだけ引っ張って、何もなかったのだから、がっかりしたのは当然だ。
そうなると最後のよりどころは、意識の戻らない愛の処遇である。キスはする。「ねむり姫」とは逆のパターンだったからか、チョッと最後に反応が激しかった程度で、意識が戻った描写はなく、そこでエンドマーク。。。。。。

期待させるメッセージを内包し、東北はがんばっている/まげねぇ!という意思表示が分かる最終回と、なんか、悲劇のヒロインを演じてしまっているだけの最終回・・・。
前回の比較検討では、「逆オマージュ」などという言葉を使ったが、この「純と愛」の最終話を意識しているつくりであることは、本人が否定しようと明らかである。全体的な明るさや、もはや主役である天野アキはほぼ埋没。祝賀ムード一色の中で小ネタがちらほらまかれる程度。一種「ミュージカル」的な演出も最後を飾るにふさわしい。こんなにぎやかで、それでいて、感動も出来る最終回が今まであっただろうか、とまで言ってしまう最終話だった。

「あまロスシンドローム」なる現象まで生み出したあまちゃん。このドラマが日本全体に与えた影響は計り知れない。実際、東北に脚を運んでいる人は半端なく、関連商品やCDも異例といえるヒットを飛ばしている。とはいえ、ヒットしすぎて、主役の能年玲奈嬢の今後・・・天野アキから抜け出せない・・・がちょっぴり心配な小生ではある。

2013.9.28 泣く要素皆無のはずなのに… あまちゃん 最終回

はいっ!!!! とうとうこの日がやってまいりました。あまちゃんの最終回は、当方の予想通り、北三陸鉄道の運行再開と、それに伴うセレモニーなどなどを追っかける完全ドキュメンタリー形式に終始した、これまでの朝ドラの中でも恐ろしく時系列にのっとった構成にしている。

な・の・で、実はそれほど書くことがない。運転再開のセレモニーでは、シレッとオープニング曲のブラスバンドアレンジでオープニングを代用、ユイが北鉄のコンパニオンとして再登場するも、気が付けばクス玉が割れているというハチャメチャ振り。もう笑うしかないというのが実際である。

一方、アキは順調に海開きのうにをゲット。夏ばっばは丘番だったとはいえ、最後のシーンは安堵の表情を浮かべていた。
お座敷列車も大盛況。だが当方、この走行シーン、しかも周りの人たちが列車に向かって手を振るシーンでこみ上げてしまったのである。

なぜか・・・。実はここに鉄道の持つ力強さと、開通がどれほど地元にとって支えになっているのか、をまざまざと見せ付けられたからである。


これはコラボレーションではあるが、最初の東北新幹線復旧の部分は、吉永小百合の落ち着いたナレーションがいい味出している。

普通だったら、ほほえましいシーンであるはずなのに当方は涙ぐんでしまう。宮藤マジックにかかってしまったのだろうか・・・。

恐竜の骨が見つかるなど、フィクションにもほどがある演出も最後のお笑いネタ。アキとユイが未開通部分の北鉄を歩いていくシーンで最後とした。


さて、次は比較検討倶楽部も最終回。もちろん、どういう結末になるかは、お察しの通りである。

半沢が「歌舞伎」なら・・・あまちゃんは?

ついに!残すところあと一回になった「あまちゃん」。

「あまロス」なる新語も登場する等、社会現象化しているという点では既に最終話を迎えている「半沢直樹」に勝るとも劣らない状況であることは言うまでもない。
そもそも、今までの朝ドラで『なくならないで』なんていうような、感情を発露させるようなストーリーに仕立てられた脚本家が誰一人いないというところがキーポイントである。その点でも、宮藤官九郎氏が脚本を担当するという時点で、このフラグがたってしまったのかな、と思わずにはいられない。

さて、私は独自の視点で『半沢直樹は歌舞伎である』というブログをしたためたことは既に書いた。
決め台詞や長回し、一対一の対決など、実質的な歌舞伎とは違うものの、歌舞伎役者が小憎たらしい演技に終始するなど、歌舞伎の要素がこれっぽっちも入っていないとはとても言い切れないドラマである。このことが大ヒットに繋がったと見られ、日本人の深層心理にある、この伝統芸能を呼び起こしたからだと思う。

では、あまちゃんは何であるか?
いろいろ考えた結果・・・。「吉本新喜劇である」と結論付けようと思う。
吉本新喜劇の基本形・・・プロットは、座長が主役を張り、ゲストがお話のキーポイントに座り、それを取り巻く人間模様を笑いあり、涙あり、最後にずっこけて終わる、なんていうのが定番である。

実は、このドラマの「座長」は天野アキであることは疑いようもないのだが、キーポイントになる人物は、実は「夏ばっば」こと、天野夏(宮本信子)ではないか、と金曜日の放送を見て思ったからである。
そういえば・・・。皆さんも放送回をいろいろと思い出してほしい。直近では「海女カフェ」の復活を言い出したアキに対する周囲の反対を一蹴したのは夏である。そのものの言いよう・・・これは完全に主役を食った演技(まあ、巧者ですから当然ですが)であり、説得力もある。おそらく、夏ばっばの存在なくしては物語りはいろいろと前に進んでいないことは確実である。

金曜日の、披露宴での演説。ここに吉本で言うところの「お涙頂戴」シーンをダブらせると、ほぼ結論が見えている・・・吉本で言えば、相手が改心する/真実を打ち明けるなど、まさにホロッとさせる瞬間・・・このタイミングでの語りは、まさに最終回に繋がる「大ずっこけ」を想定させるにふさわしい落としどころ(クールダウン)と見て取れる。

吉本新喜劇らしさは、随所に現れている。既に流行語になってしまっている「じぇじぇじぇ」にしても、吉本流で言えばだれもが一つのギャグを持って舞台で披露するのとほとんど変わらない。違いといえば舞台の上でこけないだけの話だ(それに近いことも実際幾度かあったがww)。ボケの部分がないわけではなく、その担当はもっぱらアキであるところも吉本的。それにさんざん突込みを入れるのが周りであり、どんどん引き込まれるのは、大衆演劇的でもあるからである。

人生苦難の連続/最終回も不完全燃焼だった前作「純と愛」とは比べ物にならない最終回が待っていそうな予感。このドラマは追いかけていてよかった、といえる作品に出来るかどうか。最終回までカウントダウンが始まった。
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