多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

2017年03月

即席麺試食記(300) 祝!!300食 祝!!1000万食 サンヨー 和ラー 北海道 根室かにの鉄砲汁風


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♪思えば遠くへきたもんだぁ

海援隊の名曲が頭の片隅をかすめる。食べも食べたり300食。いや、実際はレビューし損ねたり(あまりのまずさで、というのが実際だが)、レビュー済みのものを何度も食べたりしているので、実食分はそんなものではきかないはずだ。

栄えある300食に指名しようと試みた「抹茶味シーフードヌードル」が案外に終わり、ここはハズレを選ぶわけにはいかない。そう思っていたところに、新ラインアップを整えた「和ラー」の存在を知る。

今回300食目に選ばれたのは、みそ味のカニの鉄砲汁風。
味噌/かにということで相性は抜群。さぞかし麺が入ると、と考えてしまうのは当然と言える。
だが、以前から言っているように、和ラーのプロジェクトチームは、本当に「やる気」で臨んでいる。今回もその気合というか、真剣さがうかがい知れる仕立てになっている。

スープの複雑さ加減/エキスの絶妙な配分は、本当に奥の深さを提示する。味噌の成分そのものは控えめでむしろ塩辛さを前面に出してはいないので、味気なく最初は感じたのだが、だし/エキスに振ったことで味噌とのバランスを重視したのか、と思いなおす。
麺は和ラー特有のつるみのある麺。シリーズで共通仕様にしてあるようだが、今回もまあまあはまっている。具材はカニ風味かまぼこの量に不満はあるが、こんなものだろう。縦型にあまり多くを望むべきではない。

和ラーシリーズは、本当にどれを食べても発見がある。前回の味噌系は、ちょっと苦しかったのだが、今回はきっちりと地方の有名料理をコラボしているように感じる。スープだけでも何杯でも行けるかのようなうまさ。旨みが幸せに感じられる実食もそうそうないものである。

 購入店  関西スーパー  大開店
 麺    7.5/10   スープ   8.5/10    具材  7.5/10    総合計 23.5/30
 価格補正  なし     合計   23.5/30     格付け   A+(ハズレなしのシリーズでまた当たり)

考察「君の名は。」 (8)芳醇な味わいの伏線の数々

物語・映画やドラマといった映像作品につき物なのは、深みを与える「伏線」である。特に探偵もの…アニメーションで言えば名探偵コナンあたりは、これなくしては謎解きにも、事件解決にも至らない。
そんな中にあって、見事なまでに『伏線効果』を上げたあのセリフを上げずにはいられない。

 「そのもの、蒼き衣を纏いて金色の野に降り立つべし」。

宮崎アニメの金字塔、と言っても過言ではない、「風の谷のナウシカ」で、大婆様が発したこの一言。最後にほぼ見開くこともできなかったはずの目をこれでもかと見開いて、そらんじる。画面を見る我々にも、「あの場面のセリフがここで生きてくるとは!!」と思い知らされ、当方がこのアニメーション映画を評するときに決まり文句として使う「大のおとなを感動のるつぼに叩き落とす」最強の演出として今まで君臨してきた。
小さなところでは、「となりのトトロ」であえてメイの履くサンダルをアップにして映すという伏線だ。その後、池でサンダルが見つかるときに全く違う柄を提示させて、観客には先にメイは沈んでいないと思わせる小憎らしい演出。画面の騒動とは裏腹に、待ちかまえられる親切設計でもある。

伏線があるのとないのとでは、深みも、その後に押し寄せる感動も理解度にも雲泥の差が出る。意外に苦手とされていた脚本で賞を取るなど、この作品の練られた伏線の数々は当方を号泣させるにふさわしいできになっている。

・歌詞で伏線を形成
度肝を抜かれたのがこのスタイルである。すでに当方は記事にもしてあることなので、詳細はこれを読んでいただきたい。普通は、ここに気が付かないはずだ。これも、複数回鑑賞し、主題歌4曲を咀嚼しまくった結果導き出されたものである。

・「名前は、みつは」
いきなりのオープニングシーンですら、この作品は伏線を仕込んである。3年前の出来事、知らない相手から組紐をもらう。しかも自身がその渡した相手に憑依している・・・。初見ならわけがわからなくて当然である。だが、同じシーンが、あの局面で展開する。すべてがまとまり、それは彼らがそんな昔からムスバレテいたことをあらわすことになる。

・「お前は、誰だ?」
瀧が三葉の体に入ったその日。瀧は混乱する意識の中でノートに書きなぐる。だが、これを瀧が自分自身で言う局面は、まったく異なっている。そう。「知らない相手に問いかける言葉」ではなく、「知っているのに誰だかわからなくなっている」状況で発したのだ。
彼らにとっては、初恋などというレベルを超越した恋愛に発展していたことをこの瞬間知り、まるで我々も何かを喪失したかのような錯覚にとらわれていく。もうこの時点で「瀧になり切っている」自分がいる。
ちなみにこのせりふ、口噛み酒トリップ内で三葉が「お前は誰だって、貴方こそ誰よ」と問いかけている場面と、町長と瀧の入った三葉が対峙した場面で、町長たる宮水トシキも放っている。

・「たそがれ時」=「カタワレ時」
ユキちゃん先生の授業も凄い伏線であった。小説から彼女の発言を引用する。
『夕方、昼でも夜でもない時間。人の輪郭がぼやけて、彼が誰か分からなくなる時間。人ならざるものに出会うかもしれない時間。』(p.25)
二人が「カタワレ時だ」と声をそろえるためには、どちらにもこの言葉の意味と情報の所得が必要になる。三葉は授業で知っていたが、瀧は三葉に入った時、御神体訪問後に四葉から聞かされている。もし一葉の声掛けがもう少し早く、意識が現代に飛んで行ってしまっていたら、カタワレ時を知らずにいたかもしれない。いろいろギリギリだったとも解釈できる。

・「繭五郎の大火」
伏線というにはこれのみしっかりと回収されているわけではない。事実として提示されているにとどまっているが、「資料や古文書が焼けた」事実は、祭事そのものが彗星落下を表現していたことともつながりがある。→当方の解析記事はこちら。

・口噛み酒
ただ単なる「神事の一環」として見せていただけの口噛み酒。だが「三葉の半分」と知らされた瀧に強い印象を与える。三葉を助けたい一心で飲用し、それが口噛み酒トリップを呼び込み、最後の入れ替わり=全員が生き残る時間軸への移動を可能にしたのだ。

・「ムスビ」
組紐が時間の流れそのものをあらわしている、は新海流の解釈と考えているが、ご神体に向かうところで語られる一葉のセリフは、とてつもない重さを持っていることが分かる。ナウシカでもそうだが、老人の語る言葉は、その一つ一つが重い。そして、14歳の瀧と17歳の三葉は組紐によってムスバれるのである。

・手のひらの文字
「お前は、誰だ?」に対する返信として書かれた「みつは」。だが、2013年の三葉が2016年の瀧の手に書こうとした一画目の位置は決して名前の「み」の一画目とは異なる場所に書いてある。みつはと書かずに彼女は何と書こうとしたのか。→解析記事内容はこちら。そこにたどり着いたとき、瀧も同じ思いでいることに気づかされ、又涙腺が崩壊してしまうのだ。

これですべてだと思いたいが、ここまで仕込んであるところが恐ろしい。そもそも「歌詞に伏線効果を仕込む」と言った今までの作家氏がだれも挑戦したことのないこの一手法だけを取っても、新海氏の表現の仕方の幅広さに敬服する。
本当に我々は、新海氏を過小評価/ヒットできる作家だと認識できていなかった部分を反省すべきだろう。
そして少なくとも私は、「さらなる進化を遂げる」であろう新海氏の次回作が、非常に待ち遠しい。
まだ「君の名は。」が公開中であるにもかかわらず・・・。

「君の名は。」を深掘る (19)難関・二人の入れ替わり劇をたどる

20タイトルでこの徹底解析記事も終わらせたいと思っている。
それにしても、よくもまあ、これほどいろいろとネタが出てくるものだと感心する。もちろん、いわゆる設定ミスな点(当方は真っ先にあまりに町長選挙期間が長いことに気が付いたりした/ほかにも彗星の軌道)はどうしようもないところとして放置せざるを得ないのだが、それにもまして、今回、敢えて今まで放置してきた、それこそこの物語の根幹に位置する部分を解析・論評していこうとしている。

それはズバリ、「入れ替わりがなぜ瀧と三葉の間でしか行われなかったのか」という根幹も根幹、これを論じるのか?!と言われそうな題材である。

だが、当方サイドとしても、これはこの作品を完全に把握し、彼らの行く末がどうなるのか、を考えた時にやっておいて損のない解析と考えたから始めようとしているのである。


仮説:
二人が入れ替われるようになったのは・組紐 ・瀧が「同い年になる」 ことが必須条件だったとみている。意外に同い年、は気にされにくいのだが、2014年でも2015年でもないとなると、又その先でもないとなると同い年というファクターを消しようがない

まずこの仮説を発展させていこう。まずは組紐である。
奇跡的に「2013年10月3日」に瀧の手元に渡った三葉の組紐。しかし、当方の解析により、この組紐を渡すシーンは、単に名前を伝達するためのものではなく、「思いを伝える重要なシーン」であると論じてある。それは、たとえ、3年前の、14歳の瀧であっても、「瀧は瀧である」「いずれは気がついてくれる」「思いを組紐に乗せられた」からこその受け渡しの瞬間として描かれている。
ところが、翌日、(一応)三葉は死に直面する。瀧は、その時、組紐をくれた彼女がこの災害に巻き込まれていたことなど知るはずもなく、まして岐阜の田舎町の出来事で数百人が犠牲になっていたとしても「東日本(大震災)に比べたらちょろいぜ」くらいにしか考えていなくてもおかしくない。「未来の瀧くん」に惚れた三葉が渡した組紐が、時を越え、入れ替わりを促すアイテムになったとするのは飛躍した結論ではないと思っている。

次は時期である。
2014年・2015年に何事も起こらなかったのは、年齢のこともさることながら、瀧の側に余裕がなかったから、とも考えられる。2014年は受験のシーズン、2015年は高校一年生になったばかり。もし年齢を考慮に入れていなかったとしたら有力候補は2015年以降、ということになる。
そして迎えた2016年の秋。高校二年生になった直後でもなく、夏休み期間中でもない2学期が始まった直後にお互いの精神が入れ替わる現象が起こり始める。それは「あの日」である10月4日のほぼ一か月前。トータルで10回入れ替わりが起こっているということである(三葉の最後の日記が2016.10.2であり、これが東京生活10であった) 。
瀧の誕生日がある種の「トリガー」にもなっていると推察しているのだが、「あの出来事の1か月前から」と考えることも不可能ではない。年齢の一致という点もさることながら、「どうして一か月前からなのか」に関しては、明確な答えを出せるほどには至っていない。
それについては、ちょっとした邪推・完全なる個人的感想になるのだが「それ以上入れ替わりが続いてしまったら、相手を好きになることなく、ただの「いやな奴」状態で終わっていた」可能性も少なからず存在する。腕だけで飽き足らず、顔に落書きまで始める二人。「(恋人は)いないんじゃなくて作んないの」とお互い悪態をつきつつも傍から見ている分には「おーおー、仲のよろしいことで」となるように見せているところは悪くない演出だ。ただ、それ以上お互いに干渉し続けていたら、どうなっていたか、はこの物語では窺い知れない。悪い方向に向かっていたとしてもおかしくない。それを食い止める意味合いの一か月/10回の入れ替わり、だったとするならば、何事においても、うまく回した監督の采配が生きているといわざるを得ない。

そして同い年での入れ替わり、という事象については、当方は物理的な観点からそうなったと断定することにする。年齢が食い違ったままの入れ替わりは、性徴的な部分で矛盾を発生させる。例えば胸のふくらみ、男性器/女性器の問題などなど。
これについては物語の中でも大きくは取り上げられず、入れ替わったお互いが困惑する様子だけをクローズアップするにとどめている。瀧は女体化した自分に驚き、男性に憑依した三葉は、「なんや、ある」と男性そのものに顔を赤らめる。その程度で終わらせることで我々には「お困りのご様子」程度の認識をさせつつ、入れ替わりがもたらす「偉業」をあのときまで知らせないという効果にもつながっている。


もちろん、「17歳の瀧しか知らず、会いに行ったら3歳年下だった」という現実は、まさしくパラレルワールドでもある。今でこそ理解して書いているが、初見/2回目くらいまでは疑問符が付きまくる状態が治まらなかった。そして、この疑問がクリアになった瞬間に、彼らの想いと、3年間の空白が一気に埋まっていくのである。
瀧は、組紐を渡しに来た(正確には三葉を知らない3年前の瀧に会いに来た)三葉の想いを受け取り、そうとは知らずに3年間持ち続けていた。そこに気が付き、三葉に入った状態でご神体に上りつつ号泣に近い感情を発露させる。好きとも嫌いともいわれていないはずの彼らが一つにムスビつこうとしている。だから、私も「自転車をこぎ出すあたりからやばい状況に追い込まれる」ことが何回かに一度あるのだ。

入れ替わりの相手は、通り魔よろしく誰でもよかったわけではない。歴史の必然が二人をムスビつけていたとしか考えられない。

解析結果<独自研究>
二人の入れ替わりが起こる決定的な証拠や事象は、当の本人たちも「原因は不明」としているように、映像を見ている我々にも明確な回答は出していない。しかし、もし「原因がある」とするなら、二人をムスビつけている組紐がそれであり、同い年になるまで効力を発揮しなかったとするのが妥当。
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