多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

2019年07月

2019.7.31 ほだひなに憑りつかれたw 天気の子 5キノコ目鑑賞記

前回の鑑賞記の〆は、これだった。

私は、この4回目で、オーラスに当たる水没している街を背景に、大学生の帆高と、高校生の陽菜がラスト抱き合うあのシークエンスの、バックグランドの「大丈夫」の歌詞をかみしめて号泣を禁じえなくなる。

 「君の大丈夫になりたい 大丈夫になりたい 君を大丈夫にしたいんじゃない 君にとっての大丈夫になりたい」

そこに帆高の決意と、陽菜を包み込む慈愛を感じずにはいられない。帆高はああ見えて凄い男だったのだ。だからそこに惚れてしまう。応援したくなる。歌詞の破壊力がそれを後押しする。 


小説の後書きには、「愛にできることはまだあるかい」とこの「大丈夫」が最初に野田洋次郎から提示されたという。しかし新海氏は、ラストシーンの〆をどうするか迷った挙句、この歌詞を咀嚼して「ぜんぶここに書いてあるじゃないか」(p.300/原文はすべて傍点付き)と気が付き、ラストシーンを書き上げたそうだ。
だからなのだろう。曲が前提にあるから、あのシークエンスは本当に感動してしまうのだ。「君の名は。」のラストは、あえるなんて夢にも思わない彼らの衝撃の再会。それを「追いついた」と表現した野田氏。「天気の子」では、大丈夫、というキーワードを見事なまでに取り込み、泣いている帆高を気遣う陽菜の大丈夫?に呼応して、「僕は、ぼくたちは、だいじょうぶだ」と高らかに宣言する帆高で〆る。

これに気が付いたとき……まあ初見の前に、歌詞入り曲紹介の時点で、なんとはなく抱いていた、最後のスタッフロールで使う曲だろうな、くらいには思っていたのだが、感動を通り越して、彼らの行く末が本当に気になって仕方なくなってしまっているのだ。
彼らは、この先、だいじょうぶなのだろうか?大丈夫だとしても、それは、お互いを気遣うだけの、無理をしたものではないだろうか?本当に大丈夫だといえる間柄に収斂していくのだろうか?

ああ、彼、彼女がこの狂ったままの世界で、それでも色を失わずに自分たちの作った世界で生きていく。そこにまた尊さを見出すのである。

とにかく涙腺の緩み度合いが半端ない。神宮外苑花火大会の、まばゆいばかりの夕焼け空に感動してしまい、花火でさらに畳み込まれる。なんだったら、最初に出会った時の「今から晴れるよ」からの一連の動きに反応しかかったりしている。
私が瀧三に取りつかれ、解析しようと思い立つまでほぼ半年。しかし、ほだひなはわずか2週間でそこまで立ち入らせてくれている。

2019.7.28 積むぞwwww 「天気の子」4キノコ目

2回目を見て、帆高の陽菜を思う気持ちがダイレクトに入ってくる。そして確信する。

  「やはり名作だった」

と。

なんばで見た「天気の子」2回目は、それまでのストーリーのモヤモヤしたところが少しクリアになりつつ、帆高と陽菜に少しだけ寄り添うことができていた。

とはいえ、前作「君の名は。」より、省略の多用や前提条件の少なさがおそらく、もやもやになって、初見/前作に引っ張られたニワカを排除する形になっているのは結果的に動員にはつながっていないように思えるのだ。
ちなみにこの記事は、実際7/末に書いているのだが、もはや、ストーリーで疑問に思うところとかは、そこまで思いつかない。それよりも、登場人物たちの心情にどれだけ寄り添えるのかが今後の鑑賞記のメインになるように思ったりしている。

やはり、帆高と陽菜がお互いを好きになっていく過程というのが面白いと思えるかどうかがこの作品の分かれ目だと思っているし、それが、中盤のクライマックスともいえる神宮外苑の花火大会のシークエンスだと思っている。
出会って関係が深耕していく2021年の8月。そして、運命の日である、2021.8.22。これがどう描かれていくのかをどこまで思い描けるかがカギだと思う。

私は、この4回目で、オーラスに当たる水没している街を背景に、大学生の帆高と、高校生の陽菜がラスト抱き合うあのシークエンスの、バックグランドの「大丈夫」の歌詞をかみしめて号泣を禁じえなくなる。

 「君の大丈夫になりたい 大丈夫になりたい 君を大丈夫にしたいんじゃない 君にとっての大丈夫になりたい」

そこに帆高の決意と、陽菜を包み込む慈愛を感じずにはいられない。帆高はああ見えて凄い男だったのだ。だからそこに惚れてしまう。応援したくなる。歌詞の破壊力がそれを後押しする。だが、始末に負えないのは、ラストシークエンスでのこの感動。エンドロールまで引っ張ってしまうのだ。「君の名は。」では、あの青空が、それまでの感情をすぅっと持ち去ってくれるから落ち着けるのだが、この作品では、その感動のまま、「愛にできることはまだあるかい」になだれ込んでしまう。

後半のシークエンスが、歌詞入り曲で満たされるところは、特に出来が悪い、というか、うるさく感じる人がいることは否定しない。だが、それを帳消しにする「大丈夫」。小説の後書きなり、解説を読むと、この曲こそ、「天気の子」の世界観を言い表しているのだと知ると、さらに深みが増してくる。曲を聞くだけで泣けてしまうのである。

ああ、またしても新海氏は罪作りな作品を世に送り出してくれたものである。
4回目は、京都の惨劇をこの目に焼き付けた後のMOVIX京都で鑑賞。9割強に埋まった会場の、C列で見たのだが、この作品は、後ろでふんぞり返ってみるべきものではない。前に行き、細かい描写に触れて驚愕し、滂沱の涙を流すのが正しい見方のような気がしてならない。

「天気の子」徹底解析(1) 最大の論点から始めようか。*加筆してあります。

※2021.1.4 大幅に校正をかけました。1/31 追撃記事にリンク張りました。
私の「解析厨」としての真価を発揮させた一つの作品がある。それが、新海誠監督の「君の名は。」だった。精神と肉体が、同時間帯でないにもかかわらず入れ替わる設定に心惹かれて、いつしか、「映像から答えを見出さなくては」となって、スクリーンに対峙すること30数回。結果、完全なる回答を出せた。それは、「真実=歴史は一つ」という"正解"であり、「三葉は死んでいない(don't Die)」という結論に達せられるほどに、このストーリーは非常に練られたものであった。

「天気の子」を初見した時に、いきなり現実的でない映像を見せられて、頭の中がかなり混乱したのをはっきりと覚えている。それは2度目の帆高の上京シーンである。

神津島に戻り、高校の卒業式を終えて、入るべき大学も決めた帆高は又フェリーに乗って上京するのだが、「レインボーブリッジは海に沈み」(小説p.277/以降、解析記事内p.はすべて小説からの引用箇所)「東京都の面積の1/3が、今では水の下だった。」(p.277)という現実を目の当たりにする。
小説には、「降りやまない雨に従来の排水機能が間に合わず」(p.277)とあるのだが、果たしてそれは本当なのだろうか、と問いたいのだ。

では解析していこう。
その前に、現在のレインボーブリッジの状況をwikipediaで確認しておこう。
こちら。
小説では、「四本の柱だけが意味ありげな塔のように海面から突き出ていた」(p.277)とある。映像上では、
^きの場面でフェリーが進んでいくところでは海面から1/3程度=40m程度
▲侫Д蝓爾レインボーブリッジのそばを通過するときには海面から1/5程度=25m程度
高さ126mの主塔と呼ばれる鉄柱が水面から突き出している風に描かれている。最大値として、海中に没している部分を4/5とすると、映画上の海面は、現在の海面より最大で、
100mも上になっているのだ。


ちなみに海面上昇数値に関しては、様々な考察がある。当方のコメント欄にもあるように、50mあたりでは、という説もあり、事実、地上波初放送当時、ツイッターを中心に、「海面上昇幅は50m」と基準にされている人も大勢いる。だが、主塔の残り具合から言って、「50mでは足りない」のだ。その理由はレインボーブリッジの側面図にあるのだが、これらについては、皆さん独自で検索してもらった方がいい。

そして「地球は丸く、特別ここだけの特異な海面上昇になるはずがない」という現実は決して無視できない。東京だけが海に沈んでいるとは到底思えないのである。ロスも、ニューヨークも、ロンドンも、パリも、香港も、シンガポールも、ドバイも、国内なら、大阪も、名古屋も、横浜も、函館も、福岡も、鹿児島も、沖縄も、ほぼ水中下か、大半が水没してしまっているとみていい。

100メートルですよ、100メートル。つまり、いま海抜100m以下の場所は、2024年には海中に沈んでいるのだ。そして天気の巫女を引き戻したからこの雨ばかりが降り続く世界が作られたと誰しも思う。だが、いくら大雨であっても、また、ふり続いたとしてもそんな事象は体験がない。
だから、普通一般の人々ならこの結論に達してしまう。
「え?雨が降り続いたせいで、海面がこれだけ上がったの?」
そんなことは不可能だ。水は高いところから低いところに流れていく性質がある。一番低い場所が海面=海抜0メートルとしても、貯まっていくからには流れを阻害させる障害物や排水機能の有無が問題になっていく。ただ、それは流域の問題であり、海面上昇にはつながらない。
一番の勘所は、地球上の水分量は、概ね一定であるところだ。とあるサイトには、地球の持つ水分量は全水分を足し合わせて13.8億km3であるとされている。海水はもちろん、空気中の雲の中、地中、氷山と化している氷、大陸化している氷など、ありとあらゆる水分の総量である。仮に北極/南極/グリーンランドなど、地球上の氷がすべて解けてしまったとしても、広大な海洋面積からすれば、今の海水面から10mも上がることはないであろう。そして、その海面上昇も、数年で達成されるとはどうあっても思えないのだ(地球温暖化の影響は、中長期的に見て、海面上昇幅は1−2m程度しかないが、海洋国家・島で構成されているモルディブなどでは死活問題である)。

さあ、大変なことになってしまった。
「東京の海水面だけ(狭義的にはレインボーブリッジを沈めてしまうほど)100m上昇する物理現象」を見出せないからである。
仮にこの物語の時間軸の中で、一気に温暖化が進んで地球上のすべての氷が解けたとしても、海面の上昇幅はせいぜい5m。さばをよんで10mとしたところで、レインボーブリッジが海面下に沈むまでには至らない。喫水線が上がって、船の航行に支障が出るくらいが関の山である。
外的要因でないとすると、マジで降水で海面が上がったのか?レインボーブリッジがかかっているのは東京湾。つまり外海とつながっている。東京湾がせき止められ、一種のダムのようになってしまったとか、降水がすべて東京湾に貯まる仕掛けが施されたといった特殊事象以外に局所的に海面が上がる状況は作りにくい。そして船が航行できることなどから、そういった施設や仕掛けはないことがわかる。それでも、3年余りの降水が海面上昇……恐ろしい量の水分までもたらしてしまったのだ。それってありえることだろうか?
それを数学的見地で解明していく。100m海面上昇するためには、東京湾にどれだけ水がオンされたのかを計算してみる。東京湾の面積は、狭義(浦賀水道を除く)の922平方舛鮑陵僉△海譴100m=0.1Kmをかければ、水分量が求められる。その量、92.2立方繊
1立方キロは10の9乗立方メートル=10億㎥。つまり、922億㎥の水分がどこにも流出せず東京湾にたまると「東京湾の水面だけが100m上昇する」といえる。ちなみに東京ドームの容積は124万㎥。もう、計算するのがバカらしいほど水分が必要になる(74350杯以上wwwwww)、ということである。

さらにこの100mが信じられない結果をもたらす。
海水面が100メートル上がると、
東京はほぼ水没する

のだ。実は、海面上昇が10m程度なら、画面で見たような、半分くらい水に浸かっている絵面が実現できる。例えば、「大丈夫」のイントロが流れているときに、車は完全に水没せず、1mあるかないかの水深で描かれているシーンがある。そうかと思えば、浜松町付近は水深が20m近くもあり、場所によって水没している深さがバラバラなのだ。
2021.8.22朝の段階から浸水している状況を含めて、映像から再度「水没する東京」を追った記事もあるのでご参照いただきたい。
当然標高というものがあるから、水没する深さに変化が出るとは考えていた。それでも、「もしや」と思い、等高線の入っている地図を取り寄せて100m付近を水色で囲ったら……怖くなって途中で辞めたくなるほど広範囲に及んでいるのだ。
例えば今作の聖地に名乗りを上げた田端駅周辺。「標高 田端」で調べると、不動産屋さんのサイトにぶち当たったのだが、これの有用なことよ。
→小説で「それぞれの先端に当たる巣鴨駅と五反田駅」(p.288)といわれていることから、それ以東は水没している体になっているのだが、このデジタル等高線の入った山手線を見ているだけでそれがわかる。土地勘がない/何で水没しているのかを含めて、このサイトを是非お勧めする。
そして何と田端駅の標高は「6.2m」と記述がある。当方の設定である、10mの海面上昇なら田端の水没はあたりである。ところが、100mも海面が上昇していると、山手線全域は確実に水没したことになってしまうのだ。
ラストシーン。田端の道を歩く帆高の周りの景色は、新幹線の高架ですら、まるで放棄されたように緑に覆われている。しかし、このサイトが絶大な答えを導き出す。
 「水没した地区の中には、上野/東京/品川が含まれており、よって、東北上越/山形秋田長野北海道新幹線の東京−大宮間は廃止されている」
かくして「なんで新幹線も影響しているのだろう」というおぼろげな疑問もこれで解決する。

<解析結果>
レインボーブリッジの水没は、最大の悪手。海面上昇はどんなに少なく見積もっても70m(50mでは、橋の床板が完全に水没しないことがわかっている)、最大100mほどあることになってしまい、それは局所的な問題で済む話ではない。全世界が水没している→日本だけの問題で済まない大問題になっていないとおかしい。実際の海面上昇は、10m程度であり、これなら、2年半の間に全地球上の氷が解けて海面上昇が発生して低地が海に沈む、ということは考えられる。

そう書いて、私は……いや、読んでいる皆さんもこう思っただろう。
  「ほだひな、関係ないじゃん」


狂ったように降り続く雨が都市を水没させる。私が初見で問題視したのはその点だった。それでなくても、海抜0メートル地帯の宝庫である下町/荒川流域で、治水がうまく行かないということがあるのがおかしかった。だいたい、瞬間的・一気に水位が上がってなすすべなかったわけではなく「ゆっくりと沈めていき」というセリフからも手を尽くせる時間はあったはずだ。ああなる前に手が打てなかったはずがない。でも、なすがままに放置した理由は提示されない。
帆高をはじめ、ほとんどの観客は額面通り−−−雨のせいで町が水没した−−−受け止めているし、そうだと思いこまされている。それもこれも、書いたように「川がせき止められている」「海が調整池の役割を放棄した」ことがないと、不可能な物理現象である。
なので私は水没の主要因は単位の違いこそあれ、海面上昇にあるとみている。雨のせいではない(もちろんアメのせいでもないw)。
だとしたらどうだろうか?人柱にならず、普通に生活している陽菜が罪悪に思うことも、また「狂った天気のままでいい」と陽菜を選んだ帆高も、その選択は決して間違ったものではない、と胸を張って言えるのではないだろうか?
「青空よりも、僕は、陽菜がいい」

このパワーワードで私の心はつかまされた。陽菜を選んで天空から引きずり降ろしても、人柱になったままで後悔しても、都市の消失は避けられない「運命」だったとするならば、帆高の選択は正しかったといえるのだ。と同時に異常気象は、なにも天気の巫女の不在だけで起こりえるものではないということを知らしめる。首都圏に降り続く雨だけで、海水面の上昇はもたらされるものではないのだ。

「君の名は。」同様に、ラストシーン付近にこの作品のとてつもない仕掛けが内包されていた(詳しくは当方の「君の名は。」解析記事をご覧ください→カテゴリーで「君の名は。」を選択)。しかし、それは、とんでもない現実をたたきつけると同時に、象徴的な建造物を水没させることに気を取られてしまった挙句に最大の瑕疵を与えることになってしまった。この事実は覆らない。また、本来なら「そうならないようにする」ことだってできるはずの政治や技術が、なにもできず(したとしてもそれを大きく上回って)、今の惨状を作り出している、というメッセージとも受け止めることも可能だ。

救いがあるとするならば、「水没した東京」はあくまでもほだひなの世界線。完全に水没していない都心の一部(水深1m以下のところも結構ある模様)で生活している人々や、取り壊され現存しないはずの代々木会館が2021年にまだあることになっているから、「あの話、みんなチャラにさせてもらうわ」と新海氏がちゃぶ台をひっくり返すことは余裕でありえる。この陰欝で雨続きの東京が次の作品の舞台になることは決してないと断言しておく。
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