連続テレビ小説「あまちゃん」が好スタートを切った模様である。
ダイビングを趣味としている小生としては、素潜りの演技を始め、何と言っても被災地が舞台のひとつ、ということもあり、ここはひとつ見ておかねば、と思っている。なにしろ今回の脚本はクドカンこと宮藤官九郎氏。どんなストーリーにしてくれるのか、今からどきどきである。

そう思うと、「家政婦のミタ」で一躍その名をとどろかし(それまでにも結構名作/賛否両論作は作ってきた「前科」あり)、勇躍「連続テレビ小説 純と愛」の脚本を担当した遊川氏だが、最終回で何とか関東で視聴率20%越えを達成できたものの、全体的には不評で、結局ドラマとして完結した風には認めにくい結末になってしまっていた、とは、先のブログでも評したとおりである。

タイトルにあるので途中のあらすじなどはほっぽりだし、「最終回」というものに限定して話を進めたい。
視聴者が求める最終回像。それはとりもなおさず「ハッピーエンド」である。インドの映画ではバッドエンドが禁止されているというくらいなので、インドの方がこのドラマの最終回を見たら卒倒するかもしれない。仮に余りよろしくない終わり方でも、「余韻を持たせる」「感動させる」方向に持っていくのが常套である。

ところが、この作品では、やるべきことが山積している中で純の決意表明と言ってもいい一人芝居をさせている。勿論、その前に母親によってスイッチを入れられたという側面はあるにしても、いまごろかよ、という感はぬぐいきれない。しかも決然と内心でつぶやくのではなく、本当に声に出している。もう、この時点で、「ハッピーエンド」といえる素地は潰えたと確信した。
後は、眠れる「王子様」に最後のキス。ここで本当にラスト一瞬でも目覚めてくれてたら一気に涙腺崩壊だったのだが、それすらなく、腕の反応が多かっただけ(握られていないほうの手も動いていたから、この後・・・ということにしたいのかも)。結局起きたかどうかの「確認」は彼女しかできていないと見るべきで、われわれ視聴者は置いてけぼりである。

もしこれが、夜のドラマだったり、映画だったら、時間も限られ、仮にそのような中途半端/視聴者無視のエンディングにしたところで波紋は少なかっただろう。しかし、半年間/151回なので2265分=37時間と45分釘付けにして、最後のハッピーエンドを期待していた層にしてみれば、「私の半年を返して」といいたくなる欝な、というかよくわからない(どうとでも視聴者が想像できる)最終回にする必要があったのか、ということである。そして、今回の件に関しては、当方も同意見である。

必ずしも最終回/ラストシーンはハッピーエンドで終わる必要はない。しかし、彼女が最初に表明した「まほうのくに」は結局仕上がらずに終わったままだし<最後の最後の写真館で営業しているように見せてはいるが、まほうのくにの社長にしては笑顔がなさ過ぎ>、勿論愛の姿が見えていないことから彼はそのままの可能性すらある。
朝の始まりをドラマで始めている層にしてみれば、この破綻してしまっている最終回と最終週は、本当に見続けていて良かったのか、を自問自答させられる奇妙な時間帯だったといわざるを得ない。 
「終わりよければすべてよし」に出来なかった・・・そもそも愛に脳腫瘍とか、開業直前に台風直撃/半壊とか、不幸が重なりすぎる・・・朝ドラは今回で最後にしておいてもらいたい。切にそう思う。