新海信者氏のブログは一度紹介したことがある。
それがこの記事。
ブログのURLはこちら。

その信者氏がなんと、2/25に新記事を投稿したと知って、改めて訪問する。
その記事がこちら

前回の記事にもしているが、「新海誠」の名前は知っていても、作品…??という作家さんレベルだった。去年の今頃は。
せいぜい「秒速5センチメートル」が話題になり、評価が二分した、程度の予備知識で、どういう作家さんなのかは知らないで2016年を迎えているのが私の現状だった。

改めて信者氏のブログを読み解く。
論点は以下の通りだ。
・今までなら運命に従い別れていたはずの主人公たちが、この作品では運命に抗い、再会する
・彗星落下を「美しい」としか描かず、それによる被害も死も、誰も責めてはいない
・面と向かってではないものの、相手に自身の感情・・・「すきだ」を伝えられたのはこの作品が初めて
・出会えているが、それだけでは済まない「喪失」というものの意味

特にこの記述に目が留まる(記事より抜粋/斜体表記にしました)。

 これは単純なハッピーエンドではなく、哀しさを孕んだ終幕なのだ。新海監督は単純なハッピーエンドではなく、いつものように喪失を抱えたラストを提示した。
その喪失を孕んだ哀しさは、新海監督の魔術によって美しさすら感じる物へと変換されている。だからこそ、大多数の人はハッピーエンドだと捉えたのだろう。だからこそ、これほどのヒットを記録したのだ。


「ずっと誰かを探している」…この作品の隠れたテーマでもある。忘れてしまっている、なぜ彼/彼女でないといけないのか、という必然性すらも答えられない。なのに、あの並行して走る電車の扉にいるお互いがお互いを見つめて驚愕するシーン。観客が、「そんなことが(あるわけない)」と思うより先に「ああ、出会えてよかった」と安堵する方を思い浮かばせるための「なんでもないや」というBGMの存在。そして、彼らはあてどもなくさまよいつつも、お互いがお互いを探している、と認識できている。あの飛騨のご神体の上でお互いを探して疾走したあの日のように。
そしてそれが徒労に終わらないように歌詞が彼らの行く末を補完する。

 「離したりしないよ 二度と離しはしないよ やっとこの手が 君に追いついたんだよ」


つまり、信者氏は、このBGMの歌詞まで含めて、「喪失を孕みつつもハッピーエンドに感じさせる演出の妙」に感じ入っているのだ。

ただのアニメーション映画だと高をくくっていた初見。だが、解析も重ね、魅力に次第に取りつかれていくさまは、当方のブログを読んでいただけるとわかる仕組みになっている。
それでも、新海氏やその作品のことになると、どうしても信者氏の意見を拝聴せざるを得ない。そのおかげで、当方も、理解度が深まった部分もある。

実は、私の中で、新海氏の評価は、それほど上がってはいない。映像作品としての「君の名は。」のファン/フリークになっただけであり、監督・新海誠のファン・信者にまでは至っていない。次回作を見てから、彼を評価・持ち上げることをしても遅くはないと思っている。
信者氏も次回作に対する期待と不安をブログの最後に吐露している。この路線で行くことにするのか、それともまた別の、信者氏も驚くような成長を見せるのか。私も期待して待ってみたいと思う。