物語は、一連の入れ替わりを過ごし始めた、田舎町の高校生・三葉の隠れた一面が垣間見えるシーンである。
一室で組紐を編む祖母に、糸をまく妹・四葉、そして糸を組み合わせて組紐を作っている三葉が描かれている。
やや飽きてきた四葉をたしなめるように祖母・一葉が話し始める。

「繭五郎の大火」のくだりである。小説では34ページ中盤あたりから記述があり、調子のついた語りが画面上でも展開される。「日本昔話一家」(瀧の発言/p.157)の面目躍如でもある<キャスティングに市原悦子氏を当てたのは、奇跡なのか、必然なのか…>。
ここではあえてそのセリフ自体を書きはしない。だが、一葉の発言で気になる文言がある。
「おかげで、ワシたちの組紐の文様が意味するところも、舞いの意味も解らんくなってまって、残ったのは形だけ」「形に刻まれた意味は、いつかまた必ずよみがえる」(p.35)

「繭五郎の大火」の影響で、舞い/組紐そのものすら「意味があった」はずなのにそれが消えて200年たってしまっていたという。200年…世代的に言うと6~7世代前の話である。ご神体があの場所にある理由も「繭五郎のせいで、ワシにも分からん」(p.85)。

だが、その意味に一番近づいた人物がいる。それが、三葉の口噛み酒を飲み、壁画の彗星を見てまさに「口噛み酒トリップ」をした17歳の瀧である。

そこの部分を小説から抜粋する。
  「人はそれを記憶に留めようとする。なんとか後の世に伝えようとする。文字よりも長く残る方法で。彗星を龍として。彗星を紐として。割れる彗星を、舞いのしぐさに。」(p.148)

小説を読んで映画を見ると、あの、二人で舞うラストシーン。手に持った鈴が二手に分かれて落ちていくさまは、まさに彗星が分裂し、ひとつが降ってくるということを暗示するものだったことに気が付く。
そして、部外者である瀧がそれを知り得たというのも面白い。たしかに「三葉の半分」が入ってきたからこそ宮水の血筋のもつ特殊な能力の一端が開花した可能性はあるし、実際この後、2013年10月4日に着地ができている。彗星落下の当日にうまく着地できた理由はよくわからないが、やはり、彼の情念の強さが”奇跡”を呼び起こしたのだろう。

「繭五郎の大火」そのものに意味はほぼない。ただ「すべての意味は失われても、形だけは残さないといけない」という意思表示が結果的にすべてをつなげる大きな伏線になっているのである。だいたい、ああいう語りの場で提示される文言は伏線として扱われるのが常道(ナウシカの感動ポイントともいうべきこのセリフ「その者青き衣を…」の伏線も、主人公を交えての語りの場だった)。恐ろしい手法を用いたものである。

ただ、この場面の書き方は少しだけ疑念が残る。
「始まった」と三葉はつぶやき、「繭五郎の大火」と、一葉のセリフを横取りして答えている。
その後の四葉の反応が意外なのである。
「エ、火事に名前付いとるの!?」(p.35)そのあとぶつぶつと「マユゴローさんかわいそう…」なんてひとりごちている。

一家の決め事のようなルーチンワーク。「始まった」は、その何よりの証拠である。
ところがまるで四葉は、初めて聞くかのような反応を示したのである。今日が組紐の作業場デビューならそれもわからないでもないが、組紐をくみ上げる作業の方がいい、と知っているということは、下働きに近い、重り玉に糸をまくという作業も今回が初めてではない、ということである。そもそも設定ではこのとき9歳の四葉。それまで一度も携わったことがないというのもいかがなものか。

解析結果:
「繭五郎の大火」そのものには大した意味はない。だが、それによって意味は失われても形を残していくことこそ重要だということが、のちに生きることになる。ただ何度となく聞いて知っているはずの四葉の態度は気がかりではあるが、このときは「観客と同じ立ち位置にいた」と解釈すれば不都合はなくなる。