「なぜ、「君の名は。」はヒットしたのか?」「「君の名は。」を深掘る」・・・

当方は今まで、このアニメーション映画に関して、実に記事数にして80以上も上梓してきた。→現在下書きになっている、旧来の記事だけで20枚強。映画鑑賞記も毎回上梓してきているので、全体で言えば100越えは確実。

2016.10.1の初見の段階で、複数回視聴には確信はあったものの、二桁鑑賞は当然想定外。その過程で、書きたくてしょうがない、解析魂に火がついてしまった。
「あれはどうして」「これが気になる」…そのたびごとにスクリーンに座った7か月間だといっても過言ではない。

そして20回目を数え始めた段階で、当方は、とうとうこの作品の「本当の姿」を目の当たりにする。

    「忘れる」ことの尊さ

人間の記憶は本当にいい加減だ。
川村氏も小説の解説でこう書いている。
  「ひとは大切なことを忘れていく。けれども、そこに抗おうともがくことで生を獲得するのだ」(p.262)。
あの場面の二人。思い出せない/忘れたのではない。完全に消されてしまった記憶。「お前は誰だ」の言葉が持つ重さに押しつぶされそうになる。
私がどぎついリピーターになってしまったのも、このことが大きく起因しているのではないかと思う。「大事な人、忘れたくない人、忘れちゃだめな人」をついぞ作れなかった。名前と顔が一致するほどに思いを寄せた人も片手では足りないが、そのほとんどの残像は消えかかっている。
「会えば絶対、すぐに分かる」・・・。彼らの恋愛感情は、もはや名前を必要としないまでに昇華していたのだった。名前を知らなくても、二人の間の「ムスビ」は、「捻れて絡まって、時には戻って、またつながる」組紐のごときものだったのだ。

二人は、コンクリートジャングルをあてどもなくさまよう。1000万都市・東京で、二人は別々の駅に降り立ち、待ち合わせしたわけでもないのに、須賀神社の階段で出会う。「そんなやつおれへんやろぅ」と言いたくなるが、彼らにとって「再会する」という選択肢はそれがいかに無理筋であっても避けられないムスビそのものである。歌詞も言っているではないか(当方号泣中)。

 離したりしないよ 二度と離しはしないよ、やっとこの手が 君に追いついたんだよ

彼らの恋愛観は、正直すべてを映像に盛り込んではいない。わかりやすく表現せず、見る人に『忖度させる』ことで奥行きを感じさせる方向にした。これこそがこの作品が、多くの人々の共感を呼んだポイントだと思っている。何でもかんでもわかりやすく書くことは、通り一遍の評価/金太郎あめ的均一性しか生まない。人によって感涙ポイントがさまざまであるからこそ、観客が呼べたのである。

「映画にはまだ、こんな力があるんだと教えられました」。
この「こんな力」こそ、観た人すべてがこの作品に描かれていない彼らを想い、育て、応援し、彼らの動向が気になって仕方ない状況を作り出した力といえなくもない。実際、ここにそんな人が一人いるww
もうこの作品を越えうるような作品が出てくるとは到底思えない。仮に作られるとしても、それができるのは、新海氏ただ一人だと断言できる。
スクリーンではほぼ死滅状態。だが、「いつか消えてなくなる」のもムスビ。その日を粛々と迎えたい心境である。