「君の名は。」の劇場封切日は2016年8月26日の金曜日。当方は、8−9月の異様な売れぶりを横目に見ながら、「フーン」クラスで眺めているだけだった。ところが、あっという間にヒット作の第一関門たる50億を突破。4週目で100億の大台に乗せてきていた。
『これはおかしい』。この急激な伸びにこの映画には何か秘密がある。10月1日、サービスデーなのをいいことに予約して鑑賞する。そこからここまでの駄々はまりがその時想起できたであろうか…

「世界のどこにいたって、俺が必ずもう一度逢いに行くって」
「いつか消えてなくなる 君のすべてをこの目に焼き付けておくことは もう権利なんかじゃない 義務だと思うんだ」

歌詞にも、セリフにも、ここまで登場人物の想いや気持ちを乗せてきた作品を私は知らない。
いや、それは私が知らないだけで、そういう映画は山ほどあるのだろう。だが、観客の心をわしづかみにし、取り付かせるまでにさせる作品。複数回なんて…と思っていた私がスクリーンに対峙すること、34回。

正直、自分でも、この異常事態は、説明のしようがない。だが、今回、改めて、劇場でその観客層を見てみると、恐らく「こんなところで、俺、何やってんだ」(瀧 談)状態の、明らかにリピーター然とした壮・中年男性だらけの内容に愕然とすると同時に、「だから250億なんだな」と感じ入る。

はっきり言って、日本のアニメーション映画は、新たなステージに突入したと断言していい。ジブリが先鞭をつけた、「大の大人を感動のるつぼに叩き落とす」ことを、30年あまりの時を経て、ジブリとは関係の薄い新海氏が成し遂げてしまったのだ。
34回目のスクリーンは、かようなわけで、恐ろしい観客データを目の当たりにして、驚愕しか感情が湧き起こらない。劇場の特性を熟知しているのか、通路側から埋まっていく(音圧の調整点を通路に設定しているから)異様な光景。それでもつかず離れずの位置をゲット。間を開けていたはずなのにそこが埋まってくるという状態(ちなみに左隣は、中年女性でした)。残念ながら、スクリーン後方の出入り口しかなく、完全にカウントすることはかなわなかったが、振り返ると、後方座席も半数は埋まっている。ざっとの計測で60人強/155席。

音に自信のある劇場という触れ込みだったが、その言葉に偽りはなかった。クリアネス、というよりは、すべての音の帯域が増幅されたかのよう。特に「ギーン」はかなり腹に応えた。風鈴の音、集団のカラス、BGMもピアノが際立って聞こえるもんだから、スパークル出だしで完全に涙腺崩壊。今日はカタワレ時までは一切感情の発露はなかったのに堰を切ってしまってからがとめどない感動で押し流されていく。

「登場人物が歌わないミュージカル」。3回目か4回目か。この作品をこう評した。RADWIMPSの楽曲が、彼ら登場人物が歌うよりもより感動を巻き起こす。そうしたアニメーション映画を当方は見たことがなかった。そしてエンディング。彼らの未来が想起できる歌詞にしたのみならず、「夢灯籠」の返歌のごとく作詞する。この手法に完全にしてやられた。100分強の伏線! 企画段階からのめり込んでいたからこそ(もっと言えば、製作委員会にも名を連ねているから)、できる芸当ともいえる。

「なんでもないや」が流れるが…ここでもついつい感情がこみ上げる。ただ単に「泣きに行く」「感動しに行く」だけだとしても、ここまでのことはなかなかない。スクリーンで見られなくなる寂寥感。ディスプレイで見られるからこそ、その思いはむしろ増幅されていく。

改めて、私はこう宣言する。
「私は、いや、日本国民は、とんでもない映画に巡り合ったのかもしれない」。