日曜日の休みは本当に久しぶりだ。だから、というわけでもないが、この日は朝から鑑賞を決めていた部分がある。
実は、本作「秒速5センチメートル」は、年始のABCで深夜にやっていたのだ。つまり、敢えて見るまでもない、というところが実際である。
しかも、ブルーレイ上映。そんなにプライオリティが上がるほどでもなかった。
それでも見ようと思ったのは、やはり、スクリーンの魔力を知っているからだ。あの当時、賛否両論が喧しかったこの作品の持つものは何なのか、を知りたかったからだ。

さて結論から早速行こう。
まあ「君の名は。」を見た後でならこの作品の持っている主題に気が付くのが簡単だと知らされる。
それは「立ち止まっている」男の持つ、初恋のいじらしさである。
貴樹の心の中には、いつまでも明里がいる。種子島でも思われている人をきっちり袖にしている。でも、それはそれで仕方ない。幼馴染である二人の間には、その時の感情が消えずに残っているからだ。その一方、明里は、貴樹の呪縛を振りはらい、別の人と結ばれる。そして、それも仕方ないと思わせる部分がある。あまりに時間が経ち過ぎた・・・会えていないからである。

自分語りもないもんだが、かくいう私にも初恋なるものは存在する。だがそれは、誰にも告げたことのない、秘めた思いだけだった。それから私自身は愛だの恋だのとは無縁になっていく。それに代わるものが偉大過ぎたからだ。時にそれは勉学であり、仕事であり、経営であったり。気が付けば、まともにお付き合いしたのは数人、しかも行きつくところまですらたどり着いていない「付き合ったか」どうかすら危うい関係しか構築できなかった。
だが、彼ら…新海作品に出てくる男女二人を見ていて気付かされる。会うは別れの始まり、であり、それが当たり前なのだ、ということに。だから、「君の名は。」での奇跡の再会こそ、今までの型を打ち破った表現と受け取れるのだ。
その一方、本作では貴樹が、「言の葉」では特にユキノが立ち止まり続けているから合えない・結ばれないままで終わってしまったのだということに気が付く。瀧は、曲りなりでも、逢いに行く方向に動き出している。そして奇跡といえる、「そういう気持ちに憑りつかれた」瞬間を作ることができた。だから、二人の間のムスビは強固なものになり、ラストシーンが導出されているのだ。

新海氏はそれまでの「立ち止まり続ける」主人公であっては、今までと同じだと考えたのは間違いない。「前に進む」ことこそが至高である、と気が付くのだ。そして、それは大衆の求めているものと合致したのだということを観客動員で気づかされる。すれ違ったまま、追い求めないままの主人公ではいかに絵がきれいであっても、受け入れられないのだ。
ユキノのいった「歩く練習」というセリフ。これが私に大きなヒントを与えてくれた。そう。君縄以前の登場人物たちは、前に進むことを拒んできていたのだ。しかし、瀧は前に進んだ。三葉を追い求めた。だが、名前を忘れるという必然にして、痛恨の結果にとらわれる。

本作の持つ甘酸っぱさ、二人のある意味、別れの象徴とでもいうべき踏切のシーン。逢えない、すれ違うだけの恋愛。だが、そこにある二人の感情は、決してすれ違ったままではないと思い知らされる。貴樹が前を向き、明里の呪縛から解き放たれた時、彼のストーリーはまた新たな輝きを放つのだ。

確かにここまではいわば「新作」として評しているわけではない。時系列通り…2007年にこの作品を見ていたら、ここまで絶賛できるとは思えない。だが、見直しという一種の振り返りを経てもなお、この作品は特筆すべき輝きを持っている。凡庸になってしまった高校部分の表現は、主人公が入れ替わったことも含めて、ややマイナスすべき点と見る。あえて3部作とすべきだったか、どうか。いろいろ考えると、ラストシーンの表現の是非以前に全体的な甘さが見て取れる。89点あたりがいいところだろう。