珠玉の名作にまで昇華した「君の名は。」。登場人物に感情移入、ではなく本人に成りきらせるほどの作劇力、擬似ミュージカルと言ってもいい、登場人物の心情を曲に乗せて表現する(登場人物が歌わない)手法、恐ろしいまでの大団円。ありとあらゆる要素が、プラスにしか振れないという奇跡的な作品でもあった。
そしてその軌跡を具現化したのがまさに「5次元」での出会い…カタワレ時での二人の邂逅である。

涙にくれるシーンであり、二人のドラマにすっかり魅入られてしまっている。だから、今までその感動をスポイルする方向には立ち入らなかった。だが、ふっと、第三者的・冷めた立場でこのシーン・セリフたちを見ていくと恐ろしい"現実"があることに気づかされる。

セリフが始まるところから抜粋していく。
三葉 「瀧くん」(泣きながら)
瀧 「お前に逢いに来たんだ。大変だったよ、お前、すげー遠くにいるから
三葉 「は・・・でも、どうやって? 私、あの時…
瀧 「三葉の口噛み酒を飲んだんだ」

この4セリフ。こここそが当方の解析したいと思わせる最大のポイントである。すでに太字で明示したそこである。
・お前、すげー遠くにいるから
遠くにいる…距離か、時間か、はたまた精神的なものか・・・観客のほとんどが、「すでに三葉はこの世にいなくて、だからこそそれを救うために逢いに来た」と思っている。それは、本人も「助けるために来た。生きていてほしかった」と慟哭しながら叫んでいるから、彼女の死は避けられない(事実としてあった)と思われている。だが、ここで注目していただきたいのは、舞台は間違いなく、彗星落下の前・・・二人が同い年で出会っているとはいっても、2013.10.4のカタワレ時であることは疑いようがない。ということは、彼女が時系列通りに(瀧に会わず、浴衣に着替え直撃を食らう)すでに過ごしていないのにこの場にいることの方がおかしい。
・私、あの時…
そう。あの時、貴方は浴衣に着替え、テシサヤとほぼ同じ場所で彗星のカタワレが落ちてくるのを目撃したことになっている。しかし、今は、その落下の前段階。しかも、未来のことがわかってしまっている三葉の存在はまさに不都合な出来事である。「真実はいつも一つ」であり、歴史は書き替えようがない。しかし、記憶としての彗星落下はある。瀧ちゃんが「私、あの時…死んだの?」という部分は、正直どうしてそういう思いに立ち入ったのかわからない部分である。

くどいようだが、肉体の存在がないと、精神の入れ替わりも発生しない。2016年10月22日に三葉は生きていないと、2013年10月4日に瀧が中に入ってくる(入れ替わりに、三葉の精神が瀧に入る)ことは物理的に不可能である(入れ変わりが物理的に…といわれるが、それは別の話)。
なぜ彗星の直撃を受けて「死んだ」と断定したのか…口噛み酒トリップの記憶がそのまま受け継がれたのは仕方ないにしても、新糸守湖が形成されているのを見ていられる自分の存在がある=死んでいないと考えられなかったところがこの描写の矛盾点であり、我々に疑念を抱かせず「三葉は死んでいる」と感じさせる、誤認させる仕掛けにしてあるわけだ。

「三葉は死んでいない」説は、当方の解析の結果もたらされた、衝撃の事実である。
何度目か数えたくもないが、彼女が死んでしまっていると不都合が多すぎるのだ。「そういう気持ちに憑りつかれた」のは、瀧と出会っていないと無理だし(2013.10.3ではなく「あの日=星が降った日」と言いなおされているから、5次元であっても2013.10.4でないとつじつまが合わない)、停電は明らかに瀧ちゃんとテシサヤが仕組んだこと。これがニュースにもなっているのだから、「この時間軸こそが唯一無二」と断定せざるを得ない。
歴史は書き変わったのではなく、確定させるために入れ替わりが起こった、は当方の解析だが、そう考えると、様々な矛盾や疑問がクリアーになっていく。そして何より、このストーリーは、時間軸をいじってはいるものの、分岐したのはわずかに一か所だけで、バッドエンドからハッピーエンドに切り替わったのではなく、ハッピーエンド軸にバッドエンドの枝が備わっただけと言える。

カタワレ時に、場所が同一ながら、時間軸の異なる両者が合いまみえる。不可思議であるとはいえ古典の授業で伏線を張ったカタワレ時を使う。希代の名シーンにもなったし、このカットは涙腺を励起させる破壊力を持っている。瀧を認めてボロボロ泣く三葉と、その後の痴話げんかぶり。そして、カタワレ時終焉と同時に邂逅も幕を閉じる。ここから先は…今更言うまでもない。

瀧と三葉の物語。時間軸をも飛び越え「5次元」で出会えた二人が後に強固に結ばれることになる。そんなハッピーエンドが想起できただろうか?解析のし甲斐もあるってなもんである。