こんなタイミングってあるだろうか?
女性記者にセクハラまがいのことをした財務省の事務次官が半ば石もて追われるように辞職に追いやられる一件。
私ははっきり言って「酒席の戯れ言をまともに受け取ってしまうほど記者は純粋無垢なのか」と思うし、一年半も付き合いしていれば、相手がヘンな気を起こさないとも限らない。会社にもチェンジや実情を語っていたのに続行させたのだから、会社責の部分がないとは到底言えない。ただ今回、オフレコまがいの内容が白日の下にさらされたわけで、もう誰もハニトラ的な相手の誘いには乗っかってこないだろう。これって、自分で自分の情報源を滅したことにもなるわけなのだが…

マスコミのありようを真っ向から問いただす内容の映画。それが「ペンタゴンペーパーズ」だった。歴代のアメリカ大統領と政府の、ベトナム戦争での嘘の広報/政策/出兵。この映画では、肉声として公表されている、ニクソンの会話記録が使われているのだが、本人と思しき人物が窓越しに右往左往しながら電話口で話しているシーンにはいきなりつかまされる。自身の進言などどこ吹く風の政府高官の態度に憤懣やるかたなしを覚えたベンが義憤に駆られて、トップシークレットの文書を持ちだし、コピーを作成する。これが世に言う「マクナマラ文書」である。

当初配役の力関係を間違って認識していたのだが、メリルストリーブは社主で、家族経営してきた「ワシントンポスト」を株式公開で盤石なものにしようと画策している、そしてトムハンクスは、そのワシントンポストの主筆的な役割を担っているのだった。

株式公開とこの文書の取り扱い。社主の立場と主筆の立場が入り乱れていく中盤以降は、手に汗握る、どう転ぶかわからない展開を見せる。掲載か、それとも取りやめか。弁護士の高圧的な圧力にも屈しなかった社主の決断は、「やりましょう、載せましょう」と連呼することだった。この作劇は、決然としたメリルの目力と演技力に軍配が上がる。
掲載されて大団円。まさかそれで終わるはずがない。当然政府からは圧力。だが、先手を打っていたNYTimesの方が先に訴えられていた。二番手であるポストに及び腰。だが結果的に政府の言い分を飲まなかったポストも訴えられることになる。
最高裁の決定は被告に利ありの評決。湧き立つ編集部。公益に資するのが報道機関である。最後の最高裁の意見は、すべてのマスコミ人士に聞いてもらいたい名台詞だといえる。
そして映画は、アメリカ史上最大の疑獄事件「ウォーターゲート事件」の始まりを告げるシーンで幕を下ろす。アメリカ政府がいかに欺瞞に満ち、世論を誘導し、関わらないで済んだはずのベトナム戦争の泥沼を作ったのかを遠回しに表現したといえる。

マスコミのあり方を問うたこの作品。だが、前半部分は、引き込まれる部分は感じられなかった。文書が小包で配達されたあたりからが本番と言えるのだが、同じタイミングで起こった、ポストの株式公開。社の運命を左右する一大事が2件も同時期に起こる(ちなみに、英字Washington Postの公式HPにこの間の出来事が掲載されている。→出典。これによると株式公開は1971年6月15日で、ペンタゴンペーパーズの掲載に踏み切ったのは1971年6月18日。以前のウィンストンチャーチルもそうだが、ドキュメンタリーとしてみる分にも若干面白味がある。尚最高裁判決は同年6月30日に出ている。

「国民の知る権利」を高らかに宣言した最高裁の判決。翻って我が国はどうか?糺す方向があまりに間違い過ぎていて、呆れかえる。たかだか土地取引や新設学部、果てはセクハラで政権が揺るがされる。それは過度な刷り込みの強いマスコミの誘導的な手法に起因している。我が国に必要なのは、「仕事をする野党」であり、「国益のことを考えてくれる左翼」である。サボってプラカードで遊ぶ、まともに論議を戦わそうとしない。アベガー、アソウガーとしか言えない偏差値28どもに、政治が左右されてしまっては、そしてその有様を「観ている」国があることを忘れてはならない。アメリカにはいまだに自由の風潮が残っている。だからこそ、極秘であっても、入手経路がどうであっても、知らなくてはならないことは知らせるべきなのだ。そこには共感する。日本が特別おかしいだけであり、国益を毀損/ないがしろにする報道は呆道でしかない。

映画の方は、大感動はもちろんあまりなく、ドキュメンタリーとして追うのでも、やや不足。大俳優の競演は見ものでもある(出会いのシーン・レストランでのお互い会話がかみ合わない、のはなかなかに面白かった)。だが、それ以上でもない。75点あたりが精いっぱいである。