細田守監督の「未来のミライ」のスタートダッシュは思いっきり決まらなかったようである。
なんと、前作「バケモノの子」の4割減は、危機的状況。

この映画の凄い特徴は、ほとんど「一族」以外の人間が登場していないことによる。序盤で出てくるのはおそらく母方の両親。回想で出てくるのは4・5歳くらいの母親の幼少期。つづいて、若かりし頃の曽祖父。最初に登場するユッコ(ダックスフント)の人間体も、家族の一員という考え方からすれば、腑に落ちる。
つまり出来上がった系譜の中の閉鎖空間の中で構成されており、それ以外はほぼガヤである。物語を構築する上で、ここまで簡素に絞っておきながら、加齢による心情の変化も描けなかったせいもあり、特にくんちゃんの精神的な成長ぶりをもっともっと書いておけば「何とか救われた」になるところだが、最後の怒鳴りで解放された気持ちにさせられるレベルで、「やっちまった」となってしまう。

その一方、みなしごを拾い、母親の真似事をしていく、マキアとエリアルの「母と子」の描き方は、血がつながっていないという、致命的な欠陥を抱えながらでも、「僕がお母さんを護る」という意思表示をエリアルができるところに救いがある。そして青年期になり、お互いを意識しながらでも、やはり育ててくれたマキアに対する感情の爆発がラスト前で見られたから、我々も感動させられるのである。

ヤフーのレビューでも、家族愛が、という記述が結構多い。確かに、描いていないわけではないし、むしろ絆、ルーツを重視している部分というのはすごく感じられた。だが、この作品が問うているのは、くんちゃんと未来の行く末(もちろん、どちらも成長はしていく)に過去の人間はどう影響しているのか、という部分であり、また、見習い父が、一人前に育っていくさまを見せたかったのだと思う。
他方、「さよ朝」の描く家族層・家族愛は、マキアが成長しないせいで、マキアの目から見た年を取っていく人間が主に描かれる。年齢的にも精神的にも成長していくからこそ、マキアとエリアルの関係が別の方向に向かおうとしたり、受け入れられなくなっていく。

血のつながりが重要か?「さよ朝」の投げかけた命題はとてつもなく重い。だから幼馴染と結ばれたエリアルに子供ができるシーンは、今までのマキアとの関係ではなく、新たな絆を感じさせてくれる。育つのに血のつながりは必要ないが、継承には血のつながりは重要・・・。同じことは「ミライ」でも言われている。
だが、系譜が出来上がり、断絶が感じられない「ミライ」の方に、そこまでの重さは感じられない。そこがもう少し言いたいこととして前面に出てきているのなら評価も変わったことだろう。