Yahoo!映画レビューもそれほどではないこの作品を見ようと思ったのは、シネリーブルでの予告を見たという部分が大きい。
余命いくばくもない、以前はオスカーまで獲りながら(助演だけど)、閑職をほしいままにしている女優と、同じアパートに以前から住んでいた、駆け出し男優が、どうして恋に落ちたのか、そして、女優の最晩年はどうだったのか、を、男優自身が語った手記をもとにした映画になっている。
この手のドキュメンタリー映画でありがちなのは、時系列をどうやってうまく見せるか、ということ。例えば、扉を開けたら意識がタイムスリップしたり、部屋に戻ると、現在住んでいる元通りの部屋の装飾になったり。このあたりは、映画らしいスキルと見せ方で混濁させないように見せられているところは、親切だし、当たり前でもある。

さて、ここで主演でもある「グロリア・グレアム」について調べてみることにする。→彼女のWikipediaはこちら
実は最晩年についての軌跡がうかがい知れるかな、と思ったのだが、2作品に出たことはわかるが、それ以上のことはわからない。だが、乳がんで、一度手術もしたのにその後の予後をおろそかにした挙句手遅れになってしまい、最後の恋人であり友人であったピーター・ターナーとその一家に養生を任せるという経過を見る作品である。

そのなれそめは、死のわずか2年前のことである。越してきたのがグロリアで、もともとの住人だったピーターは、大女優にありがちなオーラであるとかを感じず、一人のおばさんのように接していく。この敷居の低さ、やすやすハードルを越えてきたピーターをグロリアは気に入る。デートと称して映画(ALIENというチョイスがまたなんともはやw)を見たり、バーで酒を酌み交わしたり。だが、仲が深耕する途上ちょっとしたすれ違いから口論になる。そもそも「ロミオとジュリエット」で、ジュリエットをやりたいという50歳を超したグロリアに、現実を突きつけたピーターの言動に気色ばんだのだ。だが、そこであまりに熱いキス。そこからの濡れ場は、一瞬あっけにとられた。
それはそうである。親子ほどの年齢差、身分の違い、社会的認知度、収入の差……落ちぶれたりとはいえ、オールドファンには「え、あのグロリアが?!」となるだろうし、またちょっとした舞台の熱演の後の打上でも、常に輪の中心に居る大女優の名をほしいままにしている。それに引き換え、ピーターは、舞台でもせいぜい賑やかしの端役程度。熱い拍手も送られない。
それでも、グロリアがこの恋愛を引っ張っていく。アメリカに移住同然で渡り、二人で生活をし始める。だが、これも、女優ゆえのわがままから急速に破たんした……と思っていた。

得点は、異例の97点をファーストにした。
なぜ異例なのか?それほど大きい山谷はないドキュメンタリーであり、いかに男性側からの記述がメインであるとはいっても、彼女の本質にどこまで迫っていたのか、は行間からうかがい知れるとは思っていなかったからである。
だが、この作品は、隠れていた……おそらくピーター本人も彼女の本当の”真実”を後になって知ったんだと思う。それが、アメリカでの生活の際の口げんかと、傷心ながら故郷・リヴァプールに戻った時の双方からの視点である。
あの時邪険にしたグロリアは、自分の判断ミスが寿命を縮め、今の生活が間もなく終わることを悟ったのだった。だから、「終わらせるなら早い方がいい」とばかりに、女優さながら一芝居打ったのである。この事実に触れたことで、私の涙腺は思わず励起される。だが、本当の大崩壊が待っているとは思いもよらなかった。それは、死期が間近に迫り、歩くこともままらならないグロリアを、ピーターは、地元の劇場の舞台に案内する。椅子が二脚用意されるのだが、グロリアがこう言った瞬間の出来事だ。

 「その本は?」

”ロミオとジュリエットや……”
もちろんこの推論は図に当たり、ボロボロと泣いてしまう。そして二人は朗読劇を繰り広げる。二人の至福の時、そしてかなわぬ戯曲の舞台を二人だけで演じ、最後のそして最大の願いを叶えてやったピーターのかっこよさに惚れてしまったからでもある。
それがあるから、アメリカに帰るグロリアを見送ってからのピーターの芝居は、べたべたではあるけれど、これ以上の描き方がないし、最愛の人と今生の別れをすることになる彼を見事に演じていたからである。

感動したから配点が高くなるのは仕方ない。もちろん、うまくないもろもろな部分が3点分に込められているわけだが(ちょっと合成はも少しうまくやってほしかったけど、これも時代設定上あのレベルを再現しているとするなら納得ものだけど、どうなんだろ?)、恋に必要なのは、「すきだ」と思う感情だけ。
あ、そうか。「君の名は。」と根底に生きるコンセプトは同じだから、当方にはまったのかもしれない。