「天気の子」が公開されて早3日目の朝。
当方は、2/3回目を観に行くべく身支度を整えていた。その前に新規開拓も含めたので、早朝から出掛けなくなったのはオマケなのだが、その前に気になることがあった。

「新海信者の方は、この作品をどう評価していらっしゃるのだろうか……」


以前紹介させてもらった、「君の名は。」の信者評は、それまでの陰欝で、自分の殻に閉じこもった新海節が、プロデューサーなど、外圧で大きく変えられた結果、「同じなんじゃね?」と思われた作風が明るくポップなものに変化したことに大いに驚き、「進化である」と歌い上げてくれていた。
紹介している当方のブログはこちら。

その彼のことである。最速上映に当たっているかどうかは別にして、少なくとも初日には見ているだろう、そしてそれなりに評価もしてくれているはずだ……私は自身のブログから、彼のページに飛ぶ。

「あった」。
そしてその文面からは苦渋に満ちた信者さんの顔が手に取るように想起できる。なぜか?私と同じ、煮え切らない内容だからだ。
こちら。

彼が一番気にしているのは、ラストである。まあこの件に関しては、私は解析で一刀両断することを決定しているのだが、その前提条件として起こるのが、陽菜を「取り戻した」ことの是非である。
その前に正直言って、帆高が再度上京するシーンは驚きをもって迎え入れられるのだが、この結末を「雨」だけでもたらせると誤認させる仕掛けとするとは、なかなかのものである。

私は、「君の名は。」を複数回観ることになり、解析を進める中で、瀧が「画面上一回だけのwebニュースの閲覧」という事実を見た時に、「この物語は瀧が変えたのではなく、瀧が変えなかった」未来を思うことができた。そして「三葉の死」はそもそもなく、だから、入れ替わりも、何もかもが「歴史を確定させる」ための仕掛けであると看破できた。

この作品におけるあのシーンのもたらす破壊力は、普通なら素通りするはずの……そして、今までの状況説明から「そうなっても仕方ない」と観客に誤認させている。だがちょっと待ってほしい。あの事実が本当なら、東京だけの問題で済むはずがない。世界を決定的に変えた、と本人たちは思っているのだが、「晴れなくなった東京」はそれで正しくても、「水没した東京」は彼らのせいではない可能性はある。
だから、私も非常に困っているのだ。

「君の名は。」との比較検討倶楽部は早晩立ち上げるし、「君の名は。」の存在意義についても再度確認する記事をかきたいと思っている。そして信者の彼もこう書いている。

 『君の名は。』で見せた救済を真っ向から否定するかのような作品だ。(抜粋)

だからこそ、作家性というものが前作に比べてかなり押し出したものになっている。
信者の彼の出した結論は、こうだった。

  一体どうすれば良いのか、この作品を一言で表せと言われたら僕は死ぬことを選ぶ。
  それほど衝撃的な作品だ。

  あと何度か見ると思う。だけど答えは導き出せないだろう。あまりにも難しすぎる。
  降りやまない雨のように、僕の心に永遠と降り注ぎやがて溺れてしまうのだろうか。



今、実際に私もこうなりつつある。この作品を完全に解析することなどできるのだろうか、そして、また彼の想いに寄り添うことができるのだろうか?
初回を見てもやもやした自分の心に一つの指針が生まれることを願って身支度を進めて劇場に向かった。