2回目を見て、帆高の陽菜を思う気持ちがダイレクトに入ってくる。そして確信する。

  「やはり名作だった」

と。

なんばで見た「天気の子」2回目は、それまでのストーリーのモヤモヤしたところが少しクリアになりつつ、帆高と陽菜に少しだけ寄り添うことができていた。

とはいえ、前作「君の名は。」より、省略の多用や前提条件の少なさがおそらく、もやもやになって、初見/前作に引っ張られたニワカを排除する形になっているのは結果的に動員にはつながっていないように思えるのだ。
ちなみにこの記事は、実際7/末に書いているのだが、もはや、ストーリーで疑問に思うところとかは、そこまで思いつかない。それよりも、登場人物たちの心情にどれだけ寄り添えるのかが今後の鑑賞記のメインになるように思ったりしている。

やはり、帆高と陽菜がお互いを好きになっていく過程というのが面白いと思えるかどうかがこの作品の分かれ目だと思っているし、それが、中盤のクライマックスともいえる神宮外苑の花火大会のシークエンスだと思っている。
出会って関係が深耕していく2021年の8月。そして、運命の日である、2021.8.22。これがどう描かれていくのかをどこまで思い描けるかがカギだと思う。

私は、この4回目で、オーラスに当たる水没している街を背景に、大学生の帆高と、高校生の陽菜がラスト抱き合うあのシークエンスの、バックグランドの「大丈夫」の歌詞をかみしめて号泣を禁じえなくなる。

 「君の大丈夫になりたい 大丈夫になりたい 君を大丈夫にしたいんじゃない 君にとっての大丈夫になりたい」

そこに帆高の決意と、陽菜を包み込む慈愛を感じずにはいられない。帆高はああ見えて凄い男だったのだ。だからそこに惚れてしまう。応援したくなる。歌詞の破壊力がそれを後押しする。だが、始末に負えないのは、ラストシークエンスでのこの感動。エンドロールまで引っ張ってしまうのだ。「君の名は。」では、あの青空が、それまでの感情をすぅっと持ち去ってくれるから落ち着けるのだが、この作品では、その感動のまま、「愛にできることはまだあるかい」になだれ込んでしまう。

後半のシークエンスが、歌詞入り曲で満たされるところは、特に出来が悪い、というか、うるさく感じる人がいることは否定しない。だが、それを帳消しにする「大丈夫」。小説の後書きなり、解説を読むと、この曲こそ、「天気の子」の世界観を言い表しているのだと知ると、さらに深みが増してくる。曲を聞くだけで泣けてしまうのである。

ああ、またしても新海氏は罪作りな作品を世に送り出してくれたものである。
4回目は、京都の惨劇をこの目に焼き付けた後のMOVIX京都で鑑賞。9割強に埋まった会場の、C列で見たのだが、この作品は、後ろでふんぞり返ってみるべきものではない。前に行き、細かい描写に触れて驚愕し、滂沱の涙を流すのが正しい見方のような気がしてならない。