「三葉、四葉、ムスビってしっとるか?」
三葉の祖母・一葉の語りである。このムスビこそ、三葉にとってのムスバレルべき相手……瀧の存在をも示唆している。

この作品にもスピリチュアルな言葉は頻出している。
占い師の場面でも「晴れ女」「雨女」の定義として、雨女は龍神系、晴れ女は稲荷系とされている。

陽菜が見た、魚のような物体が乱舞し、雨をつかさどる龍のような雲の存在が冒頭で謳われるわけだが、ここに来て、陽菜と龍、天気との関係が徐々に浮き彫りになっていく。
そして場面は「天気の巫女」の解説となる、住職の語りがインサートされていく。曰く「天気はまさに天の気分」「人間は、天の気分に振り回されぬようしがみつくだけの存在」「それでも、天気をコントロールできる巫女の存在は、世界各地に存在していた」「天気を差配することには代償が必要だった」など。

さて、ここで大きな点に注目である。
もし、晴れ女が「稲荷系」ならば、いなり=おキツネさま。稲荷神社系でないとおかしい。鳥居は確かにくぐったが、上空で出迎えたのは龍。そう。陽菜が演じていたのは「晴れ女」ではなく「雨女」だったのだ。
「え?雨女なのに晴れを演出できるのか?」
いい質問である。
雨女だからこそ、雨をコントロールできる、と考えることは不可能だろうか?実際、特定の場所でしか効力がない、とするならば、晴れにするのではなく「雨を止めさせる」ことしかできていないとみるのが妥当だろう。その結果、晴れが出現し、そののち雨が復活する、という塩梅である。

そう。私たちは、「陽菜は晴れ女」だと"誤認"している。それはしつこいほど言われている「100%の晴れ女」だったり、「お天気、お届けします」というワードだったりでまたしても「彼女は晴れ女だ」と思わせられている。
それが証拠に、ごく小さい範囲しか晴れにできていない。晴れにできる能力が本当にあるなら、晴れが続いていかないといけないはずである。だから、私は「陽菜は本当は雨女で、雨をコントロールしているだけであり、結果として晴れ間が演出できている」説を大いに主張したい。

<解析結果>
晴れ女なら、晴れが長続きしないとおかしいし、実際持続時間は高が知れている。「晴れを持ってくる」というよりは「雨を止めさせている結果晴れがやってくる」雨女だからこそできた晴れ間とする方が妥当である。