私が予告編を見て「これは絶対見なきゃ」となる作品はそうそうない。
「おっさん」も「かぐや」も、浜辺嬢が出ているからというだけで見ようとした「アルキメデスの大戦」も、外国映画で言えば、「ペット2」や「スパイダーバース」なんかも結局見ずじまいである。

だが、初日から見たいと思わせる予告にビビッとくる。ジョーカーも、生まれながらにして悪党ではなかった。ではその「誕生」の影に何が潜んでいるのか。紐解きたい、見てみたいと思わせるに十分だった。

さて、いきなり得点である。
97点をツイッター評でつけさせてもらった。
この作品の評価の大部分は、主演であるホアキン・フェニックス氏の笑いの演技に対してである。病的な笑いをここまで昇華できる俳優がどれだけいるだろうか?私は、泣きの演技が一番難しい、と信じて疑わなかったが、彼の時々で見せる笑いの質の変容さを見た時に、この演技を越えられる役者が今後出てくるかどうか、というレベルの衝撃を受けた。
要するに俳優の演技を見る映画、ということも言えるわけだが、そこに至る様々なメッセージもビシビシ突き刺さってくれる。
長い階段を上って自宅に向かうさまは、苦難が続いていくことを暗示し、テレビ出演に浮かれるアーサーが踊りながら階段を下っていくシーンは、すべてのものから解き放たれた感情とすでに何物にもとらわれなくなった(養母も嵌めた同僚も亡きものにしてしまった)ことが起因していると考える。
ただ意見が分かれるのが、自己防衛のため以外の殺人シーンだろう。自分以外のものが信じられなくなって義母を殺し、銃を持たせてくれたはずなのに今の現状を作り出した同僚を殺し、そして笑いもの以上の辱めを与えたMCを血祭りにあげる。銃を持ってからのジョーカーことアーサーの変容ぶりが奇異に映った人も多いだろう。
だが、銃は人を変える。自分を大きく見せる。そしてジョーカーは、力が人を変えると悟ったからこそ、悪の道に邁進していったのだと思う。

アーサーがジョーカーにならずに済んだ分岐点はいくらでもある。だが、それでも彼はジョーカーにならざるを得なかったのだ。もし彼がならなくても誰かがジョーカーになっていただろうし、そうなる運命にゴッサムシティはあったといえる。
血も涙もないジョーカーの性格は後に肉付けされたものではあるが、こうして前日譚、誕生秘話的なものを見てしまうと同情と同時に「彼を生まずに済んでいたのではないか」と思う、政治の停滞ぶりを嘆かずにはいられない。
日本でもいつ起こってもおかしくないジョーカーの誕生。それを押しとどめられるのかどうか?