クリントイーストウッド監督作は、スクリーンで見るのはこれで3タイトル目である。
「15時17分、パリ行き」の、当事者が再登場して作られた、「映画という名の再現ビデオ」の企画の凄さ、「運び屋」で、演じられるのは自分しかいないとばかりに監督・主演もやり遂げてしまうバイタリティ。どこにそんな力があるのか、と目を疑う。
年間一本は撮っている監督なのだが、いい企画が思いついたら、すぐに脚本にできるブレーンがいて、形になりやすいからかな、と思ったりする。いくらなんでも、並行作業は難しかろう。
そしてこの作品「リチャード・ジュエル」である。大まかに言えば、爆破テロに使われるはずの爆弾をいち早く見つけて、被害を最小限に食い止めたはずの一警備員が、なぜか犯人に仕立て上げられ、マスコミの激しいメディアリンチにさらされながらも無実を訴え続ける、といった内容である。

正直、「犯人は別に居る」(後に捕まるのだが、誰が演じているかはわからなくなっている)「主人公は無実である」ことを観客は知っている。だから、ストーリーが発展することはなかなかにない。新たな事実が次々に出てくるわけではないからである。仮に出てきたとしても、それは、彼の人となりが犯した、爆弾事件とは何の関係もないプライバシーのことばかり。例えば締め付けが厳しすぎて、出入りを禁じられた大学であったり、ゲイを疑われたり。そして捜査は、彼が犯人のように仕向けることばかりをやっていく。無印の書類にサインを求めたり、犯行予告と同じ文言をテープに吹き込ませたり。ねつ造を悪としない風潮でもあるかのように、ごく自然にFBIは振る舞っている。そこに恐ろしさを感じる。
マスゴミも同類である。寄ってたかってプライバシーを覗き見る。毎日のようにテレビ中継。視聴者が飽きたというまで続けられるのだから、リチャードにしたって、我慢の限界に来ていただろう。
サム・ロックウェル演じる弁護士役は抑制のきいた芝居と、その時々で見せる正義感がいい味わいを醸し出している。冒頭で、主人公と弁護士は対峙するのだが、リチャードを悪人とは全く思っていない弁護士・ワトソンの彼への信頼が痛いほど伝わってくるシーンも一つや二つではない。
とはいいながら、結局のところ、リチャードが言い放った、「私をどうして有罪にできるんですか?」という一言で形勢が逆転する。そこまでの2時間余り。我慢の限界であり、よくここまで引っ張ってこれたものだと感心するが、昨日の敵は今日の友、という具合にマスコミを利用するで無し、やられ放題にやられっぱなしでよかったんだろうか?

得点は89点になってしまった。
爆弾がさく裂するまでを丁寧に描きすぎたきらいが見えたことと、そこからラスト、FBIと対峙するところだけでよかったんじゃないの、という思いがどうしてもぬぐえないのだ。
冤罪を扱う映画だから、いかに捜査関係者が喜撰な捜査をしているのかを見せることは必要だったし、危ういシーンはいくらでもあった。しかし、内情を知っていたリチャードだから、本物の白紙委任状にサインはしなかったし、録音されて、証拠にされそうになったという危機もワトソンの機転も含めて逃れられている。だから、できすぎているようにも思えてしまうのだ。
リチャードは、確かに"英雄"ではある。だが、影を纏う必要はこれっぽっちもなかったのにFBIとマスコミによってその偶像はあっという間に汚されるのだ。それがUSAだとしたら、そんなものはくそくらえである、と監督は言いたかったのだろうか?
映画が世相を映すものだとするならば、この作品は、今のメディアに対する強烈な風刺と批判、FBIには「お前ら、いい加減にしとけよ」という警鐘と見ることもできる。一つの事件をここまで解釈できる監督・クリントイーストウッド。老いてますます盛んである。