冤罪でとらわれたのみならず、死刑判決を受けてしまったしがない黒人男性を助けようと、「司法は弱者救済のためにこそあるもの」という信念のもと、人権擁護団体(EJI)を立ち上げた一弁護士の奮闘の物語であった。
それまでの弁護士は、適当に仕事をしている振り、挙句依頼金をもってとんずらをされる始末。当然、新しく来た弁護士にまともに応対するはずがない。
しかし、「やってないなら私を信じて」と足しげく通う弁護士に次第に心を開いていく描写が実に面白かった。
初対面の時は、斜に構えてまっすぐ弁護士の顔を見ようともしないジョニー・Dだったわけだが、面会を重ね、さらに重要証人も次々に現れるなど、判決を翻すことも不可能ではなかった。前のめりになり、弁護士・ブライアンを信頼していくさまはわかりやすいくらいだった。
ブライアンも関わり、遂に死刑執行が間近に迫った死刑囚・ハーバートが死刑執行されるまでの演出は、中盤の中だるみの作品をピリッと絞めてくれる。本人は罪の意識はあり、しかも悔悟の念に苛まれている。彼の罪を精神的な疾患で認めさせまいとしたブライアンだったのだが、結果的に電気椅子に座らされる。本人のリクエスト曲が流れる中、ほかの囚人たちの鉄格子をたたく音が彼の耳に届いた演出は、死を悼み、同じ釜の飯を食った同志を送る歌のようにも聞こえて、感動を禁じえなかった。
そのシーンから、ブライアンの本気度が上がっていく。偽証をした(というより、ほぼ強要された)マイヤーズに、良心の呵責に訴える、そして偽証だったことを再審請求の席で告白させたのだ。
勝負あり、と思った矢先の請求棄却の決定。司法は決して覆らないのか、を印象付けるのだが、州高裁での差戻審に至って、今度は検察サイドの引き延ばし策。ぶちぎれたブライアンは検事にかみつくのだ。

得点はまあまあ読了感もあったので91点とする。
「法の正義」は行われて当然なのだが、原題である「JUST MERCY」(ただ慈悲あるのみ、とかか?)が問いかける意味を、ラストシーンの公聴会では述べていた。「貧困の対義語は富裕ではなく正義」という一言を聞かされて、あの大作家・やなせたかしさんのことが思い浮かんでしまった。罪を憎んで人を憎まず。なのに司法は断定的に「黒人は生きているだけで罪」とでも言わんばかり。140人もの冤罪をEJIは解消したようなのだが、逆にそこまで捜査はいい加減で罪なき者が有罪にされているのか、と思わざるを得ない。
アメリカにいまだに残る黒人差別。白人であっても犯罪者に仕立て上げられてしまった「リチャードジュエル」のような現実がいまだに残っていることに驚愕を禁じえない。