実に1年2か月ぶりの「君の名は。」のスクリーンでの拝見は、私に相応の確信をもたらした。→ブログはこちら。

それは、「(比べるのは間違っているかもだが)『天気の子』は、『君の名は。』を越えられない」ということである。すでに「比較検討倶楽部」でも、このことについては記事にしてあるのだが、 (こちら)ここで私が言いたかったのは、やはり、楽曲と作品のバランスである。
「天気の子」は、企画段階から、RADWIMPSが加わり、実際に映像が出来上がる前に2曲が提供されている。その一方、「君の名は。」の場合は、若干映像に合わせるような作りの楽曲が多い。それは「スパークル(Movie Edit.)」一曲を上げるだけで十分である。一部で「君の名は。」がMV的に感じた人が多数出たのは、むしろ音楽が映像に寄り添ったからだといえる。
『天気の子』の自己主張の強さは、まさしく、帆高のあの2か月の生活の中に現れている。そして楽曲の力強さがむしろ宙に浮いたような感覚を創出してしまったことが前作を越えられなかった要因ではないか、と思ったりもする。

それでも、私は、この作品……「君の名は。」には、マジで足を向けて眠れない。それほどのインパクトを植え付け、私に様々な記録を打ち立てさせた作品だからだ。初めての複数回鑑賞、もちろん二桁鑑賞も、遠征してまで見に行った映画もこれが初めて。猛者はともかく、40回台になることは、2016年10月の段階で全く想定していなかったことは確かだ。
2週続けての「ドリパス」企画上映。TOHOなんば19時スタートに若干の危惧をしていた私は、雑務を翌日回しにするなどして、1時間ほど早く仕事場を脱出。着替える時間までは捻出できず、ほぼ作業着のままで劇場に向かう。果たせるかな、18:40分過ぎには劇場入り。だが、人であふれかえっているはずのロビーの閑散なこと。実際、なんば上映回は、50人ほどしか参集しなかったと思われる。
当方繋がりのフォロワー氏は3名だけ。前回の梅田版では、8名ほどはいただけに、これだけでも閑散ぶりが見て取れる。
6番スクリーン、B列は私一人だけ。さらに猛者といえるA列にも私の真ん前にお一人。ガチ勢らしさをかもしながら映画に没入する。

ここでは、TOHO仕様のマナー映像もかかり、その後に映画泥棒となった。梅田は、照明落としののち移動時の注意喚起後に映画泥棒だったので、ちょっと面食らったのだが、なんばは基本に忠実だったのかもしれない。
開始一秒。前回のような感情までは勃興しなかったが、それでも「これを見に来た」といえる彗星の落下シーン、そして「現実と違う」壮大な伏線をここで仕込んであるのだから、本当にすごいといえるのだ。
「多分、あの日から」。この一言こそが、三葉の死を否定する一大メッセージになっていることを今でもほとんどの人が解析できていない。もっと言えば、オープニングで「死」そのものが否定されているのだ。死からのやり直し、ではなく「死なない歴史を確定させるため」の入れ替わりだから、2016.10.4以降はレギュラーの入れ替わりはなくなって当然なのである。もし瀧が彼女に逢いに行こうと飛騨に行っていなかったら……それこそ歴史は書き変わってしまったかもしれない。
今回は、久しぶりに、自転車こぎながらのシーンでじわじわと涙腺が浸食されていった。そして、想いが伝わったその時! あの組紐の受け渡しでさっそく第一の波を受けて撃沈する。こうなると、そこからのシーンはもう泣かずにいられるわけがない。
「カタワレ時だ」。
声が揃う。瀧の驚いた表情、そして浮かべる安どの表情、その後の微笑み。これを一介の俳優がセリフに出さず、すべてを表現できるものだろうか。アニメーションだからできることというのがこういったところにも表れる。そして、珠玉の瀧の独白、そして慟哭。神木隆之介をして、一世一代の名演技、といえる、泣いているはずなのに一切上ずらない声に感情を持っていかれる。
三葉も同様である。躓いてひっくり返り、軽く気を失ったわけだが、いとおしい人の声に我を取り戻す。
「すきだ」
この右手の文字に初見で私は泣かされた。畳みかけるスパークル。そして決然とした、一番かっこいい三葉。あのシーンがあるからこそ、別のバッドエンドはないと我々も確信できるのである。

二人は唐突に出会う。だが、二人のムスビは、あの瞬間で出会える奇跡として描くことで、無理筋・強引と言った外野の声を十分にかき消してくれた。出会えたからこそ、この作品は共感を得たのだろう。

48回目。
世間一般からすれば、「アホかいな」と思われる鑑賞回数である。しかも公開年からの5年間、必ず一回は見ている作品になっている。
「私は、いや、日本国民は、とんでもない作品に出会ってしまったのかもしれない」


誇張でも何でもなく、本当にそう思う。関西ガチ勢として、2上映回すべてを押さえられたのは本当によかったと思っている。