閉鎖的空間での濃厚接触。ライブハウスや院内感染と言った要件を満たしてしまっている施設で拡散が始まってしまっている新型コロナウィルス。
これに今現在で映画館が含まれていないのは奇跡でしかないのだが、逆になんで営業できるのか、と不審に感じる層もいなくはないはずだ。

一席飛ばしで買えるようにしかしていないシステムのおかげで、特定の映画に関しては、売り切れさせるまでになってしまっている。何しろ、150人箱でも75席分は買いたくても買えないわけで、それ以上鑑賞希望者が出れば、難民になってしまう。あの「君の名は。」難民が大量に出た時期とかぶっていたら、と思うとぞっとする。

SHIROBAKO終わりでミッドサマーのチケットを買おうとすると、「ほぼ満席なんですぅ」という売り子さんの声。「ま、まさか……」仕方なく、ペア席の一角を押さえたのだが、売り子上の言い分は間違いなかった。
15分ほど前に入場許可が出たので入ってみると、私の後ろから入ってくるのは、ペアの、それも女性客が驚くほど多かったことである。146席の1番だったのだが、本当に70人近くが陣取っているから驚きである。

さて「この作品が何でここまでネットをざわつかせているのか」を探るべく、当方も対峙するわけだが、もう映像の畳みかける演出の数々にメロメロにされてしまった。
冒頭の、主人公・ダニーの家族の物語にあれだけの尺を当てることにさっそく違和感を感じるのだが、その死がもたらす、ダニーへの憑りついて離れない家族への喪失感というものをこれでもか、という具合に見せたあたりは彼女が天涯孤独になってしまったことへの言いようのない寂しさをもついでに描いている。
そんな精神不安定な彼女を支えるべき恋人のクリスチャンは、ダニーに対してはまともに向き合っていない感じを随所に見せる。ラブラブとは見せなかったあたりにもそれが見え隠れする。
そして、サークルの同級生が向かう、出身地の「奇祭」の取材に、卒論かねて向かうクリスチャンたちとダニー。ここに至るまでの時間の長さは、正直「いらないんじゃね?」と最初思ったくらいである。
そして彼らを出迎える白装束の「ホルガ」の村人たち。一見ただ幸せに暮らしているだけかと思いきや、90年ぶりのその祭には裏メッセージがあった。

得点は、さすがに90点台前半。92点までとする。
世の中の絶賛や高評価は、正直、映像美や「明るいのに怖い」といった部分にあると思うのだが、その大半が、いわゆるヤクや幻覚をもたらす民間伝承によるところが大きい。一人置いてけぼりにされる悪夢やら、自分の家族があの舞台で骸をさらしているところとか。
ゾンビ的な怖さも、霊的なぞくっとするものすらない。実際、"殺し"は行われたのだが、それも半分は贖罪の意味合いの方が強い(クリスチャンの連れ二人は、一人は聖なる木に小便をかけたことだし、もう一人は、聖典を撮影したこと。イギリスから来たカップル二人は、逃げ出そうとしたことが死に直結したとみる)。それは、彼らの牧歌的な、そこに居るだけで幸せを享受しているだけの集団が、それを破壊したり侮辱したりするものに鉄槌を下すことだから、そこまでの怖さを感じないのだ。
つまり我々もどこか「彼らは死んで当然」と思わされているのだ。実はここが一番怖いと感じるべきところである。

夏至のある日の、北欧の村の出来事。クライマックスまで用意されている9日間は、我々宗教心が薄い日本人にはただのカルト的だし、死がいとも簡単に行われることに恐怖しか感じない。だが、表面上は、そこに恐怖も凄惨も存在しない。あるのは、「儀式」という名の元に執り行われる命の輪廻である。
私の中では、そこまで引き付けられるようなできとは思ってない。ただ、生とは何か、家族とは何か、を問うているのは間違いない。ダニーの微笑みこそが雄弁に物語る映画だった。