もし、10年前にタイムスリップできるならば、新海作品をもっともっと愛でるべきだったし、「君の名は。」以前に「彼はこの程度では終わらないよ」と未来予想できていたのに、と思う。
だいたい、新海氏は2014年の「言の葉の庭」であっても、小規模公開にとどまったこともあり、1.5億程度の興行成績どまり。つまりそれは「持っていない」ことの現れでもある。

その前作である、「秒速5センチメートル」は、3タイトルのオムニバスながら、一人の少年から青年期の恋愛観にフォーカスすることで2000年代の若者像の一端を切り取ったとする向きと、いわゆる「オタク」的に映る、内向的な男性の負の側面……恋愛下手に鋭く迫った作品との評価もあり、勃興し始めていたネット界隈をざわつかせたりもしていた。
2007年といえば13年前。「なにしてたかな」を自身でブラウジングすると、「中の人」だけで飽き足らず、派遣で生計を立てていた時期であることを知る。一歩道を踏み間違うと、あれよあれよという間に奈落に連れていかれる雇用情勢でもあった。2000年の「千と千尋」以来、アニメーションには映画もテレビも見向きもしなくなり、日々を何とか生きるのに精いっぱいだった。

今の私はそういう精神的に追い詰められている状態ではない。だから、このストーリー上の貴樹の姿勢というものには賛同しかねる部分がある。特に大人になってからの彼の女々しさが非常に鼻につくのだ。
何者にもなりたくない消極的な貴樹が、それでも明里に思いを寄せている。彼女と呼べる人がいたにもかかわらず、「1僂盖離が縮まらない」といわれて別れを告げられる。そこまで引っ張っていたのなら、もっと早くに明里に告白し、付き合えばよかったのだ。でもそれはできない。その根底にあるのは「渡せなかった手紙」に収斂されるとする。あの手紙が渡せていたら……明里もきっと貴樹に手紙を渡していただろうし、それが分かちがたい絆……ムスビにつながっていたとみるのだ。
あの手紙が風に舞っていくその刹那。逢いに行っているのに思いが届かなくなる演出をすることで、二人のムスビはかなわない、といっているのと同じである。両想いの二人が時間の経過とともに徐々にその輝きを失っていく残酷なまでの成長を見せつけられるのだ。
濁りきった貴樹のすさんだ生活と、貴樹の想いを吹っ切った明里の別の人生。この対比の恐ろしさと、幼少期に渡った踏切での邂逅は、この作品の一つの"顔"である。そこに明里は残っていない。そしてそれは当然だと思い知らされるのだ。
貴樹を必要としない明里。だから待つ必要もないし、声すらかけなくてもいい。そこに厳然とした現実を見た貴樹はニッとほほ笑む。ようやく"次"を模索し始める足元で〆るあたりは、物語をよくわかっていると感じる次第である。

ツイの書き出しは「重い」とした。ここまでかたくなに明里を追い求めながら貴樹は行動には起こせない。だが、のちの「君の名は。」では、彼女に逢いたいという衝動を抑えきれない瀧が描かれるのだ。ここに作家性の成長……変容を見て取れる。最新作の「天気の子」も同じだった。
じゅくじゅくした男ではなく、動ける男に惹かれていく。新海監督がどの時点でその変容を自ら受け入れたのかはわからない。だが、結果的に「100億の男」になれたのも、世間の求める作品像と一致したからに他ならない。「君縄前」「君縄後」と称される作品群にあって、この「秒速」は、まさに拗らせていた監督そのものが描かれているように邪推してしまっている。