私の中で「一日劇場に入り浸った」経験は全くなかった。それはひとえに「何本も見ることは不可能」という概念からだった。
ところが、それに類することも時々でやっている。例えば年始の劇場訪問だ。ただそれでも「朝から晩まで」とまでにはならない。
新海作品のブロックバスターたる「君の名は。」「天気の子」の実質二本立てがおしまいになる7/23は、あろうことか祝日。同じ箱での2本2回にプラス一本で一日劇場にいることができるのだ。

その朝一の一本に選んだのが、ドキュメンタリー映画の「娘は戦場で生まれた」だった。
シリア・アレッポの反政府活動家の女性が撮り続けた多くの記録映像がソースであり、その中にあるのはこれまた活動家であり、医師の顔を持つ男性との一粒種・サマに残した映像という観点でも語られる。
所詮内戦であり、私を含めてその実情を知っている人はそんなに多くはいないはずだ。反体制側からの報道ばかりに彩られるのは仕方ない(つまり、空爆をして無辜の民を危機にさらしている側が悪)としても、「戦わないで済む方策」というものもあってしかるべきだったと思うのだ。
反体制側がそれこそお山の大将よろしく、誰の援助もなく戦い続けられるわけがない。一方、政府側は、もともと親交のあったイランやロシアの後ろ盾を得て、勢力を増していく。それが理不尽な空爆や殺戮を容認してしまうのだ。
死ななくて済んだ命に対する無力感がスクリーンに充満する。それでも、とある「生」のシーンには言葉を失う。生と死は隣り合わせの戦場の中にあって、非戦闘員の日常がかくもあっけなく奪われ、常に空爆の恐怖におびえる日々がそこに描かれるのだ。

とはいうものの、見終わって釈然としないものも感じ取る。娘・サマのためにアレッポに残らない/少なくともサマを戦場にとどめ置かない(一緒に行動しない)ことがサラッと言われるにとどまっていたからだ。母の選択としてそれが正しいのか、どうなのか?自分たちはエンドロール上では生き残ったわけだし、のちに妊娠して生まれた男の子ともうまく生活していることが言われてほっともするが、最悪の結末だって用意されていたはずだ。そう。映像に映されていたほかの家族と同様な、子だけが先に死ぬ結末が。
結局このアレッポの戦いが残した現実は、多くの市民の犠牲と、美しかったはずの商都・アレッポのがれきと破壊の限りを尽くされた町並み、それに倍する、敗北という名の結末だということだ。国どおしの戦争であれ、内紛が拡大した内戦であれ、そこにあるのは無関係な人々が翻弄されるだけに終わることである。