「君の名は。」が映像に音楽を合わせる手法でつくったとするなら、この「天気の子」は、音楽の提示が先にあって、映像を合わせていく手法になっているところである。新海氏がプロットをRADWIMPSの野田洋次郎氏に提示し、そこから上がってきたのが「愛にできることはまだあるかい」と「大丈夫」だったということは、小説のあとがきにも書かれている(p.298-300)。そして新海氏は、ラストシーンに充てるためだけに名曲「大丈夫」を使うことに決めたのだ。まさに帆高と陽菜が分かれてから3年後の春に田端の坂道の途中で出会うこの上ないエンディングとするために。

いま、特別音響上映を2回見、音に合わせる新海スタイルとはどうだったのか、を考えた時に、若干新海氏の作家性がそがれてしまったんではないか、と確信し始めている。野田氏の音楽に引っ張られ過ぎてしまった、といえる点だ。

歌詞入り曲がエンドロールまでで6回/5曲。「君の名は。」の場合は、オープニングの「夢灯籠」、30分過ぎの場面転換曲「前前前世」、クライマックスの「スパークル」、「なんでもないや」は2バージョン作ってラストにつなげられている。5回/4曲であり「天気の子」が一曲多いのだ。
クライマックスで2曲……愛にできることはまだあるかい、とグランドエスケープ……使わざるを得なかったことに新海氏が野田氏に遠慮したかのような感じを受けるのだ。

帆高が代々木会館で立ち回るシーンは、歌詞入りでなかった方がよかったかもしれないし、後半ミュージカルかのごとく歌詞入り曲の比率が高くなるのはいただけないと感じている。お気づきの方も多いかもだが、歌詞がかなり前面に来てしまっているのだ。
それがもたらすのは主人公たちの感情を見えにくくする(歌詞に引っ張られる)効果だ。事実、しゃべらなくなった後、「夢にぼくらで帆を張って」のところがアガるように感じるのは、歌詞がすべてを代弁しているからで、それだけ力強いから余計に彼らの決断を応援したくなるのだ。

音響が調整されていると、こういった今まで気が付かなかった部分まで浮き彫りになる。音楽と映像というものは、時として相乗効果もあるかもだが、出張りすぎることでお互いの長所を打ち消し合ってしまう諸刃の剣であることも知っておく必要はあるだろう。

「天気の子」38回目で塚口一日チャレンジは幕を閉じる。一日最多の5スクリーン鑑賞。まあ、キチ縄さんの足元にも及ばないが、入り浸ることもできる体になってしまったことに苦笑する一日となった。