最近、「予告とかをまじまじと見ないで(ハズレかもしれない)映画を見る」ことが多くなっている。ひとえにそれは、雑音といってもいいTwitterのつぶやきであるとか、関係者の評価だったりするのが後押ししてしまうことにある。
もちろん、それであたりを引っ張ってこれればいうことはない。むしろ映画というものは、入り口の段階で「絶対見る・(余裕があれば)見る・見ない・みたくない」くらいに色分けしておかないと、いくら時間があっても足りない。

そう思ったのだが、今作「ミナリ」に関して言えば、ズバリ、次回作になるであろう、ハリウッド版の「君の名は。」の監督氏の新作だったから、予習も兼ねて見に行ったという動機がある。
一応のソース。新海氏も絶賛しているというのだが……

さて、その動きは正しかったのか?
結論から言うと、「日本映画のようなたたずまいの、人間ドラマがメインで、人物描写などには一定の評価があるが、全体的にぐっと引き込まれるような演出はなかった」と感じた。
物語の主軸は、いまではなく、80年代のアメリカ。移住しないと食っていけない時代の韓国の一家族の奮闘ぶりが描かれる。実はここはめちゃくちゃ重要で、アメリカンドリームを目指さないとやっていけない韓国という国のバックボーンに触れてしまっているからである。ひよこの識別で生計を成り立たせていた家族が父親の一念発起で韓国野菜農家を目指すことが主題で、これによって成功するかどうか、が言われるのである。

どこをどう評価していいのかわからなかった前半から中盤。「ミナリ」はセリである、という祖母と孫との交流は、あの水辺を中心にして、もっともっとあってもよかったと感じた。
後半に入る手前に祖母が脳卒中で倒れたあたりから、不穏な雰囲気に包まれる。それでも野菜の卸先も見つけ、空中分解寸前だった両親も何とか首の皮一枚繋がる。だが、神様は彼らに試練を与えてしまうのだ。

後半の夫婦のツーショットくらいしか、評価できる作劇がないというのが如何ともしがたい。それどころか、びっくりするようないたずらを子供時代にしてしまう韓国の悪い面も出てしまう。どう考えてもいたずらの度が過ぎているし、それはかの国のDNAのなせる業だろうか?
大団円である必要はなかったかもだが、ラストシーンを導出するための前段に悲劇を持ってくるのはあざといし、それでさらに困窮したんです、と言ったような追い打ちもないのでは、何のための演出なのか、と言いたくなる。
ところどころに匂わせる、アジア系に対する差別もチクチク感じるところが不快感を増長させる。監督本人の半生記が下敷きになっているとはいえ、映画にしてまで見せる必要はあったのだろうか?

レビューを書いていて、どんどん不満があふれてくるのでここら辺で止めておく。得点は、はまらなかった、ということで82点にした。アカデミーでも覚えめでたいK文化。「パラサイト」で調子こき始めているように見えるわけで、この作品の去就も気になるところである。
次回作になるであろう、「君縄」の監督としては、まだ未知数と考える。ただ、底は知れたかな、とは思っている。