多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

テレビ番組

2021.10.29 よう編集したわ 「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」TV金ローサイズ版 鑑賞

テレビ視聴を記事にしようと思い立ったのって、いつぶりだろうか?
しかし、10時40分ごろから、止まらない涙腺をどうしようもなくなり、ティッシュの山が築かれるしかない内容には、参りました、の一言しか見当たらない。

10話に負けず劣らずの7話、ギルベルトの死を墓で確認して、放心状態のヴァイオレット。どこにも抜けがない、というか、こういう具合に"映像で見せる”シーンが頻出すれば、傑作の誉れが高くても当然といえるかもしれない。

この作品に限らず、京都アニメーション作品は、表情を見せず、ちょっとした感情の勃興を手や足の仕草、微妙な動きで表現することを得意としている。それが我々の中に演者の想いを想起させ、どんな顔をしているんだろう、という想像まで駆り立てる。
10話のワンシーンなんかそうだ。家から飛び出し、相当な距離走って走り疲れて泣いているアンに追いつくヴァイオレット。しゃがんでいるアン、顔は入っていないヴァイオレット。そこでセリフが言われるのだ。
だから、感情を爆発させたアンにやりたいようにさせるシーンは、それまでの"兵器"としてのヴァイオレットからの脱皮と、感情を受け止めるだけの成長がなされていることをも表現している。勝手な憶測と笑うかもしれないが、年端もいかないアンのわがままに対応できるようになったヴァイオレットが、自動手記人形として独り立ちしたと理解できるシーンだ。
実は、CH郵便社に帰ってから一気に感情を吐き出したヴァイオレットの演技の方が至高とさえ思える。30分アニメでよもや、ラストにもう一段泣きを畳みかけてくるなんて、誰が想像しえただろうか?兵器・軍人としての立ち居振る舞いが完全に払しょくし、一人の心ある女性に大きく変化したシーンとして語り継がれることだろう。

ダイジェストにまとめる/他局の版権(制作者委員会の中にはABCアニメーション・関西の朝日放送・キー局であるテレ朝系での放映)/深夜時間帯ワンクールアニメーションのゴールデン進出と、エポックメーキングな放送となったこの作品。
「神10話って、なに?」となった視聴者がどこまで食いつくのか、次週の「外伝」地上波初放送も大いに期待できる。

アメリカ大統領選の大騒ぎは何だったのか?

現地時間1/20(日本時間1/21未明)の第46代アメリカ合衆国の大統領就任式は、厳戒態勢が引かれ、コロナ禍の雰囲気も手伝って、祝賀ムード一色というわけではなかった。
これまで当方も、「不正で勝ち取った」立場のバイデンさんがどうあれ大統領になることは難しい、と思っていた。だが、そこまで大規模な不正が行われているなら証拠の一つでも明らかにできるはずの、トランプ陣営が証拠という言葉に対してはだんまりな姿が、「あれ?これって、ただ、喚いているだけじゃないの?」という気付きにつながっていった。

訴訟が受理されないのは、完全に状況証拠しかなく、実際選挙違反の逮捕者や大量の票をねつ造したとされる画像や証言とされるもののすべてが証拠認定されていないことが大きい。よしんば、今回仮に証拠を上げられ、裁判に持ち込めたとしても、バイデン氏の当選を無効にすることまでには至らない。この大統領選挙は、やる前から「トランプはすでに敗者だった」といえるのだ(郵便投票を止められなかった時点で敗北すると感づいたから、「違法だ」「正確性が問われる」などと声高に言っていたのだろう)。

戦う前から負けている。それでもバイデン氏の政権運営が滞りなく行えるように振る舞ってこそ、威厳も保たれるはずなのに、それをしないでわがまま放題。特に「核のボタン」にまつわるひと悶着は、ただ就任式に出たくない、という私情が優先した結果ともいえるわけで、果たして4年後、こうした不誠実な態度や行動が再選される際の足かせになりそうな気がして怖い。

バイデン氏に関しては、息子絡み、また自身の幼女趣味が、それ自体は小さな問題かもだが、顕在化するとスキャンダルに発展しないとも限らない。それでもアメリカ国民が、二国に分断する勢いで選んだ大統領なのだから、ぜひとも4年の任期は全うしてもらいたい。

2021.1.3 地上波初放送「天気の子」感想

鑑賞しながらの実況、それが終わってからの自分自身のブログに誘導するツイートなどで忙しくなってしまった。
落ち着いた今だからこそ、この作品の感想を大手を振って言える。

そう。あのラストシーンがすべてだと思うのだ。新海作品は、須らく、ラストシーンの芳醇さが際立っている。それは今までの作品の変遷を見てもうかがえる。
「言の葉の庭」では、作った自作の靴を、知り合った御苑のあずまやに持っていき、自分も新たな一歩を踏み出す決意を宣言するシーンで〆たし、賛否分かれる「秒速5センチメートル」だって、貴樹が、次のステップに向くべく、やや微笑みながら、歩き出すのだ。「会わなくても生きていける」。このメッセージ性が大きかった。
だが、「君の名は。」からは、「逢わせる」ことこそ至高だと、路線を転換した。決して会うことなど叶わないはずの電車の車窓での偶然の邂逅。須賀神社でまるで待ち合わせしたかのように出会う二人。出来すぎであるとは思うが、そういった物理的な瑕疵が全く気にならないほどの最高のエンディングになっている。「天気の子」では、そこまでの小細工はしない。せいぜい、「なぜか陽菜は祈っている」というシーンを内包させるだけにとどめてある。そこからの帆高の号泣ぶり、そして振り返った、天使のような陽菜。直後顔をくしゃくしゃにして帆高の元に飛び込む陽菜。そして、この作品の大テーマといえる「大丈夫」というセリフで締めるのだ。

大丈夫。
今現代はほとんどの人が大丈夫ではないだろう。コロナウィルスが生活まで破壊する事態を引き起こすなんて、誰が考えただろうか?ほだひなの世界線では、自分たちが引き起こしたにせよ、そうでないにせよ、水位が上がり、土地の奪い合いも日常茶飯事に起こっているであろう、カオスな世界がそこに広がっている。生活に支障をきたしているという点では、映画が現実に追いついた、といえなくもない。
だから、その先見の明を過剰に評価する人もいる。「新海は先が見通せていたのだ」と。
だが、これには異議を唱えたい。ずっと降り続く雨は不条理で、自然現象だからこそ抗えず、なすすべもない人間を描いただけであって、未来がこうなるとは、本人は思っていないはずだ。

陽菜を連れ戻す。その直情的感情に動かされた帆高の真の思いは、あの指輪を渡した時のセリフ「ずっと一緒だ」に集約されていると思っている。瀧が「大事な人、忘れたくない人、忘れちゃだめな人」とひとりごちたのと同じ立ち位置にいたと思っている。
この作品は、より一層新海誠の作家性を進化させたのと同時に、彼が次に届けようとする作品の一つの踏み台になっていると思う。ラストシーンの芳醇度合いがさらに進化するのか、どうか?鋭意製作中とされる作品にも目が離せない。
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