多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

ひとりごと

人の生き死には止められない

白昼堂々の狙撃(本当にSPはどこ守ってたの?)をやすやすと実行させてしまう警備体制のザルぶりにあっけにとられる今回の安倍元首相に対する銃撃事件は、普通なら、つい立てや背面盤などで「背後を護る」ということがあるべきなのに、それもなく、ほとんど丸裸の状態。選挙カーなどで応援演説をしていれば、不審者の近づくことも容易に察知できたはずだが、元職のせいかどうか、わからないが、ほぼ雑踏と同じ目線。さっきも書いたが、背後に張り付くようなSPの姿も見られない。
そして今回の2発の銃声なのに流れ弾がなかったことについてはこう推察する。
・一発目は、音の出る「空砲」
これで、周りを硬直化させる。「なんだろ?」と思わせることができれば御の字。大量に吐いた白煙がそれこそ、自分を煙に巻く効果もある。そしてその間に対象者に近づく。
・二発目が致命弾であることは明らか
一発目で倒れているわけではないし、音も二発目の方が鈍く感じる。しかも至近距離。お手製であっても、事前に殺傷能力は計ってきているはず。むしろ、至近距離に近づくための方策が一発目だと考えている。
・至近距離だから、破片を一身に浴びた可能性
周りのスタッフがだれ一人ケガをしていないところに疑問は残る。散弾銃なら、いくばくかの流れ弾はあってしかるべきだし、一方銃創があちこちにあるのは散弾である証拠。犯人の独自理論ではじけさせるような仕掛けを施してあった可能性はある。

襲ってください、といわんばかりの警備体制と、足のつかない自作銃での凶行。乱射できる構造の銃ではなく、ましてSPを巻き添えにすらしていないゴルゴ並みの的確な殺戮劇。単独犯の可能性は高いが、犯人の41年間の人生の中に、安倍氏を殺さねばならない、という沸々とした殺意がどう醸成されていったのか、は気になるところだ。

かくして名宰相は凶弾に倒れてしまった。67年の生涯は短い、ともいえるが、これほど毅然とした首相はいなかったんではないだろうか。今の首相が頼りないだけに、余計に偉業や功績に目が行ってしまうのは仕方ないか。お疲れさまでした。安らかにお眠りください。

忙しくなりますぞ!!

遂に!
当方が共同作成者として名を連ねている同人誌サークルが、コミックマーケットに初出展することになった。
→「不安定の安定」がサークル名。8/13(土曜/一日目)の東4/ヨ15aが場所。当日会場配置はこちら。

一応コミトレで雰囲気はつかんでいるものの、遂に、本家本元のコミケに「中の人」で行くことになろうとは。

取り急ぎご報告まで。
びっくりしたが、いい予定ができた。

車いすおばさん考 世間に対する敵対心を造成させたのは誰か

とあるコラムニストさんのブログが物議をかもしている。
いまだに擁護派・憤慨派に分かれた論調は続いているし、とうとう本人も「中傷はやめて。そろそろ幕引きにして」とSOSを発信するまでになってしまっている。

端緒となったブログそのものは、本人のページからは削除された模様だ。
→それでも、その記事をもとにした論調はちょっと探せば出てくる。J-CASTニュースから
当方は、まずもって、同じ立場に立ち入れないうえに、本人でもないし、いろいろ彼女の心情を慮ることも難しいとみている。その上で、この書き方をしたことの根底にあるものは何か、を探ろうと思ったのだ。

まずタイトルからして振るっている。
「JRで車いすは乗車拒否されました」。
ほほうっ!天下のJRが、障がい者にそんな対応をしやがったのか!と、タイトルだけしか読まない人なら思っても不思議はない。ところが読んでいくうちに小田原駅での丁丁発止、乗換駅の熱海駅の駅員の尽力が伝わってくる。そう。彼女はちっとも「乗車拒否」(拒否という言葉をどうしても使うとするなら、「介助拒否」「来宮までお供できない」である。そして「出来ない」ことを理由に拒否もできる)されていないし、目的地には到着しているし、なんだったら、帰りには到着駅に駅員はスタンバイしていたこともわかっている。

コラムニストさんだから、タイトル命、読んでもらうには煽情的に書いたことは理解している。しかし、書いたことと結果とは大きなずれがある。0か100かくらいの大きなものだ。書いていくうちに気が付いていたかもしれないが、「乗れているのに乗車拒否はおかしいな」と思っている感じもない。
当方の私感ではあるが、タイトルをそのままにしたのは、「初期対応のまずさ」が彼女の心を大きく傷つけている、「目的は達成されても心情的には拒否する気満々」だったと(本人が)感じたからタイトルとして残したのではないか、と思うのだ。これなら一応のつじつまは合う。

そうなってくると、最終的には感情論にならざるを得なくなり、意見が真っ二つに分かれてしまうのだ。さらに傲岸不遜な物言いだったという小田原駅でのやりとりの模様がツイートされたり、過去のとんでもない事案も暴露されるなど(夢の国子供料金入場は過去の武勇伝で、時効になっているとはいえ)、これまでの"業"が自分にマイナスに作用してしまう。
彼女がこういう態度や行動に出なければならない「本当のところ」を知らないと、簡単に糾弾も批判もできない。それは、先天性の病気で歩行もままならない、マイナススタートの彼女の持つ心の闇がそうさせているとするしかない。

彼女のブログの筆致からは、自分をよく見せようという脚色は感じられない。「してもらって当たり前」「障がい者様のお通りじゃ」というストレートな物言いがひしひし伝わってくる。世を恨み、周りに当たり散らす。傍若無人な駅のベンチに靴ごと上がって寝転ぶ自分の子供たちの写真を嬉々として挙げる時点で、自分たちは特権的で何をやっても許される、障がいを理由になんでも拒否することは許さない、という明確な意思を感じ取るのだ。
彼女は当然障がい者を代表していない。だから「電動車いすに乗ってる奴みな自己中」と考えるのはおかしな話だ。しかし、彼女のせいで「面倒くさい人たち」「クレーマー」という意識を社会が持ってしまったことも事実である。無関係なほかの、善良で問題を起こそうなんて考えていない障碍者も同じ目で見られ、相互理解が進まず、さらに世間に対して憎悪の念を増幅させる。

分断の連鎖を断ち切るのは、いまだにJRの対応に疑義を唱える本人の意識改革しかないと思うのだ。「人は一人では生きていけずに誰かを求めてしまう」とは、当方が一時期お熱を上げていた某声優の歌う名曲の一節なのだが、支えられているという感覚が彼女にはないのかもしれない。心まで障がい者になってしまっている彼女は、何かと戦っているただただ痛い残念な人のままで人生を終わらせるつもりなのだろうか?
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