多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

ニュース

国論二分? ゴミどもの印象操作に辟易

安倍晋三氏の国葬儀は、粛々と行われた模様である。
→もちろん、騒いでいた連中も居たにはいたけれど、ごく少数過ぎて草も生えない。実際のニュースは、こちら
黙とうするという基本中の基本もできない人たちの大騒ぎもニュースになっている→こちら

世論で「反対」が多かったのに、ふたを開けてみれば、それとは真逆の世間の反応。少なくとも、献花組が一ケタ少なく、反対派が数倍いたなら、この図式は成り立ったと思うのだが、なぜこのような事態に至ったのか、阿呆なマスゴミどもはずぅっと「おかしいなぁ、おかしいなぁ」と言い続けるに違いない。
どうせゴミたちはやらないと思うけど、この結果をもたらした原因を探らないとだめだ。まず、国葬儀の日取りはすでに7月の段階で発表されている。つまり、「この日に行こうと思う」人たちの予定が組みやすかった。第二に天気。さすがに朝から雨降ってたら出足も鈍っていただろう。そして何よりも、自分たちの思った通りに誘導するゴミたちの神通力が図らずもついえたことの表れともいえる。
反対派が優勢となっていたとするなら、少なくとも反対派の集会はそれなりの世代の人たちで埋め尽くされないといけないのに70代前半の全共闘世代ばっかり(少なくとも中核派の白ヘルとか、前時代の遺物が闊歩する事態にはドン引きせざるを得ない)。これでは大多数の賛意を得られるはずがない。先鋭化した、反政府集団に若者が取り込まれるという最悪の事態が訪れなかっただけでもよかったと思いたいが、では「反対多数」の世論調査はいったい何だったのか、ということにどうしても帰結してしまう。
もうはっきり書いてしまうが、「国葬なんかやっている場合ではない」最悪のタイミングでやると決めた岸田氏の時流の読み間違えがすべてである。円安が止まらず、家計を圧迫する事態に対して賃金が上がらない状況であるなら、そりゃ、たとえ一人当たり数円規模の税金だって「無駄遣いだ」と袋叩きに合うことくらい想定されたはずだ。経済が安定化するなり、時期を置いて(議論を尽くして)やるなりすれば、まだ反対という声が多くはなかったと思っている。
今回の「国葬反対の世論が優勢」の状況を作ったのは、間違いなく岸田総理であり、このことだけをもってしても世の中を不安定化させた責めを負わなくてはならないと思っている。それでも、ゴミたちは、どちらかというと「アベにそこまでの厚遇はおかしかろう」という論調が目立つ。決して打倒岸田には向かない。それは、今の岸田内閣が自分たち……ゴミたちの上部組織たる勢力にとって御しやすいからだと見ている。
いつまでたっても、アベガー。今回の国葬儀で分かったことは、これで完全に安倍ロスになったパな人たちが、それでもモリトモガー、カケガクエンガ―、サクラノカイガ―、とやり続けて世の中から総スカンを食らってますますパヨる図式しか見えてこない。

ウマ娘効果は計り知れない……

「ウマ娘 プリティーダービー」の、リリースからの快進撃は、今更特筆すべきものでもないだろう。ゲーム会社を持っている持ち株会社が一気の業績回復、同社の社長が馬主になってリアル競馬界も席巻、新シナリオでは、遂に!! 元騎手(女性)が解説・実況を担当、ほぼ半月ごとに出てくる育成ウマ娘の登場も相まって、ブームはほぼ一度の挫折も味わっていないままに1周年イベントを完走した。
そうなってくると、「金」の匂いに引き寄せられる業界も多々出てくるのは想定の範囲内だ。例えば、ドリンクでは、サントリーフーズの出しているエナジードリンク《G ZONE》でウマ娘コラボが発売されたのみならず、今度は、缶コーヒーのプランドBOSSとのコラボも実現。担当者の1万字を越えるアツすぎる解説文は、怪文書を通り越して、ラブレターみすら感じられる。→全文は、こちらから。ただし【BOSS担当者の想い】コーナーから。一周年を前にして、ファミリーマートがウマ娘モチーフのコラボ商品を販売していたのも懐かしい。

そして、とうとう、ウマ娘=実際の馬名 が映画タイトルになっている「トップガン」がウマ娘とコラボをする、と聞いたときは、さすがの私も面食らったのみならず、「その手はなかった」と膝を大きくたたいたものだった。
当初の「トップガン マーヴェリック」の公開時期はいつだったか知っているだろうか?wikipediaによると、なんと、2020年の6月26日に公開されているべきもの(撮影終了はこれよりかなり前であり、当初は2019年の7月をめどとしていた。ところが撮影が押してしまい、第一公開日直前まで撮っていたため、延期されている)だった。仮にコロナウィルスの影響がなく、2020年に公開されていたら、この夢のようなコラボも当然行われていないと思われる。→当該wikiはこちら。もちろん、アプリのヒットがなければ、さすがに言い出しにくいところもあっただろう。

2021年8月に、当該映画での、マヤノトップガンの宣伝担当が決定。去る2022年5月24日のジャパンプレミアでは、マヤノ担当の星谷嬢を含めて、4人のウマ娘の中の人がイベントに参加。主人公とキャラがまさかの掛け合いまで披露するなど、もはや、コラボを通り越して奇跡ですらある。
→段取りとは逆の掛け合いになったのは、確実にトムサイドが仕掛けたアドリブに違いない。ウマ娘の動向までを文字起こしして、経過がわかるこちらが詳しい。

いやあ、凄い世の中になったものである。あれもこれも、リアルに日本の競馬界を走っていた実在の馬たちが擬人化しただけのこと。それがここまでのムーブメントになることなど、少なくとも、アニメ一期終了時点の2018年には誰も予想していなかったはずである。
この先、このゲームが、どこまで発展するのか……終わりの見えない長期連載漫画に関わってしまったような感覚は間違っていないと思っている。

車いすおばさん考 世間に対する敵対心を造成させたのは誰か

とあるコラムニストさんのブログが物議をかもしている。
いまだに擁護派・憤慨派に分かれた論調は続いているし、とうとう本人も「中傷はやめて。そろそろ幕引きにして」とSOSを発信するまでになってしまっている。

端緒となったブログそのものは、本人のページからは削除された模様だ。
→それでも、その記事をもとにした論調はちょっと探せば出てくる。J-CASTニュースから
当方は、まずもって、同じ立場に立ち入れないうえに、本人でもないし、いろいろ彼女の心情を慮ることも難しいとみている。その上で、この書き方をしたことの根底にあるものは何か、を探ろうと思ったのだ。

まずタイトルからして振るっている。
「JRで車いすは乗車拒否されました」。
ほほうっ!天下のJRが、障がい者にそんな対応をしやがったのか!と、タイトルだけしか読まない人なら思っても不思議はない。ところが読んでいくうちに小田原駅での丁丁発止、乗換駅の熱海駅の駅員の尽力が伝わってくる。そう。彼女はちっとも「乗車拒否」(拒否という言葉をどうしても使うとするなら、「介助拒否」「来宮までお供できない」である。そして「出来ない」ことを理由に拒否もできる)されていないし、目的地には到着しているし、なんだったら、帰りには到着駅に駅員はスタンバイしていたこともわかっている。

コラムニストさんだから、タイトル命、読んでもらうには煽情的に書いたことは理解している。しかし、書いたことと結果とは大きなずれがある。0か100かくらいの大きなものだ。書いていくうちに気が付いていたかもしれないが、「乗れているのに乗車拒否はおかしいな」と思っている感じもない。
当方の私感ではあるが、タイトルをそのままにしたのは、「初期対応のまずさ」が彼女の心を大きく傷つけている、「目的は達成されても心情的には拒否する気満々」だったと(本人が)感じたからタイトルとして残したのではないか、と思うのだ。これなら一応のつじつまは合う。

そうなってくると、最終的には感情論にならざるを得なくなり、意見が真っ二つに分かれてしまうのだ。さらに傲岸不遜な物言いだったという小田原駅でのやりとりの模様がツイートされたり、過去のとんでもない事案も暴露されるなど(夢の国子供料金入場は過去の武勇伝で、時効になっているとはいえ)、これまでの"業"が自分にマイナスに作用してしまう。
彼女がこういう態度や行動に出なければならない「本当のところ」を知らないと、簡単に糾弾も批判もできない。それは、先天性の病気で歩行もままならない、マイナススタートの彼女の持つ心の闇がそうさせているとするしかない。

彼女のブログの筆致からは、自分をよく見せようという脚色は感じられない。「してもらって当たり前」「障がい者様のお通りじゃ」というストレートな物言いがひしひし伝わってくる。世を恨み、周りに当たり散らす。傍若無人な駅のベンチに靴ごと上がって寝転ぶ自分の子供たちの写真を嬉々として挙げる時点で、自分たちは特権的で何をやっても許される、障がいを理由になんでも拒否することは許さない、という明確な意思を感じ取るのだ。
彼女は当然障がい者を代表していない。だから「電動車いすに乗ってる奴みな自己中」と考えるのはおかしな話だ。しかし、彼女のせいで「面倒くさい人たち」「クレーマー」という意識を社会が持ってしまったことも事実である。無関係なほかの、善良で問題を起こそうなんて考えていない障碍者も同じ目で見られ、相互理解が進まず、さらに世間に対して憎悪の念を増幅させる。

分断の連鎖を断ち切るのは、いまだにJRの対応に疑義を唱える本人の意識改革しかないと思うのだ。「人は一人では生きていけずに誰かを求めてしまう」とは、当方が一時期お熱を上げていた某声優の歌う名曲の一節なのだが、支えられているという感覚が彼女にはないのかもしれない。心まで障がい者になってしまっている彼女は、何かと戦っているただただ痛い残念な人のままで人生を終わらせるつもりなのだろうか?
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