「かぞくいろ」と「えちてつ物語」を見おわった。
当方としても2018年の秋公開で、よく似た背景の映画であり、しかもローカル私鉄(両者とも第三セクターだが、成り立ちは違う)が舞台になっている映画。どちらも大規模公開には程遠く、それほどでもない売り上げにとどまったもようである。
さて、今回の「比較検討倶楽部」は、この2タイトルをキャスティングの妙を交えつつ、なぜ私が「えちてつ」の方を上位にあげたのかを論じていく。
「かぞくいろ」の晶、「えちてつ」のいづみ。二人が役割は違えども主役として出張っている。前者は、「肥薩おれんじ鉄道」の運転士(見習い→最終盤で正式採用)として、後者は「えちぜん鉄道」のアテンダント(行きがかり上→中盤で正式採用)として。
前者の理由付けがあまりに弱いところは気にかかる。仕事がない→義父と同じ職場に行くという選択肢のなさにあきれる。あの局面で、他の仕事を探せなかった理由というものが知りたい。後者は、東京での仕事もうまくいかず、自分はお笑いに向いていない、というところに「渡りに船」状態。だから、動機が不純であるとしても問題ないのである。
仕事の取り組み具合は、当然運転士と、運行に直接携わらないアテンダントでは異なっていて当然であり、ギャグっぽいところがあった後者の方が、映画的であり笑える。
家族関係についても両者ともに異なる形をとる。前者が、連れ子と母親、義父という奇妙な関係。後者は血のつながらない兄弟という設定だった。仕事的に絡まない後者と違い、現役の運転士である義父との関係も取りざたされる前者は、その関係性の濃さが逆にストーリーを澱ませてしまっている。
「かぞくいろ」に引っ張られてしまった前者が家族のつながりを執拗に描いたのとは逆に、「えちてつ物語」は、そのまま、えちぜん鉄道という会社の成り立ちや今の会社の立ち位置を解説している部分も大きかった。
ここまで論じて、主役について考えてみる。
「かぞくいろ」は、主役もわき役もそつなくこなす有村架純を据えて盤石の体制を取った…はずである。だが、当方的には、あまりに器用にこなしてしまっているところに若干の違和感を禁じ得ない。一方の「えちてつ物語」はぶっちゃけ芸人としても中途半端な横澤夏子をキャスティングするという”大博打”にでた。
だが、と思い直す。
あまり「いろ」のついていない役者で撮ることに傾注した後者が、芸の優劣は別にして、新鮮に映ったのとは裏腹に、見事に「いろ」のついた有村嬢で撮った前者にそれほどの感動を催さず、むしろ2時間が苦痛に思える作品にしてしまったところは否定できない。
「えちてつ」は横澤で撮る意味があった。それは・中途半端な芸人キャラ ・現実的に面白くない ・それほどまでにきれいでない という、奇跡的なキャラクターだったからに他ならない。だから、彼女がもしスカウトされたら…風な見方もできるから、面白いし、「マジでそうなるかも」と思わせるだけの真実味がある。
他方、「かぞくいろ」の方はどうか?国村隼的な運転士はどこの3セクにもいそうだが、果たして有村みたいな、虫も殺さないような女性が運転士として活躍できるのか…それも、正直言って最終盤で独り立ちしているシーンしかなく、そこに至るまでの葛藤とかに時間を割いたおかげで、運転士としての矜持であるとか、心構えであるとかが見えにくかった。最後の歩道橋のシーンがそれに当たるとしても、「そこで語るのか」と思わざるを得ない。
「かぞくいろ」だから鉄道・運転士の描写が薄く、「えちてつ物語」だから鉄道の描写やアテンダントの役割が丁寧に描かれている、と簡単に評してしまいがちだが、別に鉄道の運転士でなくてもよかった「かぞくいろ」の評価が落ちてしまうのは、仕方ないところだといえる。実際材料が多すぎたのに、亡き夫との回想シーンがこれでもかと流されたり、不倫相手との密会をする女教師の場面とか、そこまで書かなくても、という内容ばかりが目立ってしまっていた。ストレートな「えちてつ」が、主役の下手さは別にして上位に来てしまうのはそういうところからである。
当方としても2018年の秋公開で、よく似た背景の映画であり、しかもローカル私鉄(両者とも第三セクターだが、成り立ちは違う)が舞台になっている映画。どちらも大規模公開には程遠く、それほどでもない売り上げにとどまったもようである。
さて、今回の「比較検討倶楽部」は、この2タイトルをキャスティングの妙を交えつつ、なぜ私が「えちてつ」の方を上位にあげたのかを論じていく。
「かぞくいろ」の晶、「えちてつ」のいづみ。二人が役割は違えども主役として出張っている。前者は、「肥薩おれんじ鉄道」の運転士(見習い→最終盤で正式採用)として、後者は「えちぜん鉄道」のアテンダント(行きがかり上→中盤で正式採用)として。
前者の理由付けがあまりに弱いところは気にかかる。仕事がない→義父と同じ職場に行くという選択肢のなさにあきれる。あの局面で、他の仕事を探せなかった理由というものが知りたい。後者は、東京での仕事もうまくいかず、自分はお笑いに向いていない、というところに「渡りに船」状態。だから、動機が不純であるとしても問題ないのである。
仕事の取り組み具合は、当然運転士と、運行に直接携わらないアテンダントでは異なっていて当然であり、ギャグっぽいところがあった後者の方が、映画的であり笑える。
家族関係についても両者ともに異なる形をとる。前者が、連れ子と母親、義父という奇妙な関係。後者は血のつながらない兄弟という設定だった。仕事的に絡まない後者と違い、現役の運転士である義父との関係も取りざたされる前者は、その関係性の濃さが逆にストーリーを澱ませてしまっている。
「かぞくいろ」に引っ張られてしまった前者が家族のつながりを執拗に描いたのとは逆に、「えちてつ物語」は、そのまま、えちぜん鉄道という会社の成り立ちや今の会社の立ち位置を解説している部分も大きかった。
ここまで論じて、主役について考えてみる。
「かぞくいろ」は、主役もわき役もそつなくこなす有村架純を据えて盤石の体制を取った…はずである。だが、当方的には、あまりに器用にこなしてしまっているところに若干の違和感を禁じ得ない。一方の「えちてつ物語」はぶっちゃけ芸人としても中途半端な横澤夏子をキャスティングするという”大博打”にでた。
だが、と思い直す。
あまり「いろ」のついていない役者で撮ることに傾注した後者が、芸の優劣は別にして、新鮮に映ったのとは裏腹に、見事に「いろ」のついた有村嬢で撮った前者にそれほどの感動を催さず、むしろ2時間が苦痛に思える作品にしてしまったところは否定できない。
「えちてつ」は横澤で撮る意味があった。それは・中途半端な芸人キャラ ・現実的に面白くない ・それほどまでにきれいでない という、奇跡的なキャラクターだったからに他ならない。だから、彼女がもしスカウトされたら…風な見方もできるから、面白いし、「マジでそうなるかも」と思わせるだけの真実味がある。
他方、「かぞくいろ」の方はどうか?国村隼的な運転士はどこの3セクにもいそうだが、果たして有村みたいな、虫も殺さないような女性が運転士として活躍できるのか…それも、正直言って最終盤で独り立ちしているシーンしかなく、そこに至るまでの葛藤とかに時間を割いたおかげで、運転士としての矜持であるとか、心構えであるとかが見えにくかった。最後の歩道橋のシーンがそれに当たるとしても、「そこで語るのか」と思わざるを得ない。
「かぞくいろ」だから鉄道・運転士の描写が薄く、「えちてつ物語」だから鉄道の描写やアテンダントの役割が丁寧に描かれている、と簡単に評してしまいがちだが、別に鉄道の運転士でなくてもよかった「かぞくいろ」の評価が落ちてしまうのは、仕方ないところだといえる。実際材料が多すぎたのに、亡き夫との回想シーンがこれでもかと流されたり、不倫相手との密会をする女教師の場面とか、そこまで書かなくても、という内容ばかりが目立ってしまっていた。ストレートな「えちてつ」が、主役の下手さは別にして上位に来てしまうのはそういうところからである。