多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

上白石萌音

2019.12.16 現代劇に振りすぎた 「カツベン!」鑑賞記

私自身は、周防正行監督作品は初対峙である。地上波でも一度も見たことがないはずで、特に上白石萌音嬢主演の「舞妓はレディ」を見逃しているのは如何ともしがたい(まあ、このとき映画鑑賞が趣味にはなってませんからね)。
だが、「Shall we ダンス?」をはじめ、肩の凝らない作品を作らせたら、右に出るものはいない。なので、登場人物のいかんを問わず見る気満々になっていた。

月曜日、というより、16日はOS系のサービスデー。ナイト回では割引率としてもうまみはないが、1200円で新作も見られるとなったら、見ない手はない。
で、勇躍劇場に突撃するのだが……
ソロ男女2名ずつ、カップル二組、以上wwww閑散ぶりに驚くばかりである。

すでに映画は市民にとっての唯一の娯楽ではなくなりつつあり、一時期の不振を払拭したとはいえ、黄金期からは程遠い動員でしかない。その上、映画を取り巻く環境は日々進化している。スクリーンで勝負しないでも「売れる」と認識されつつあるNETFLIX専用のドラマや映画が勃興し始めている。劇場の中でも、普通にスマホが使われ、マナーの低下には歯止めがかかっているとは思えない。
そんな中でトーキーが出張ってくるまでの過渡期に活躍した映画を説明する「活動弁士」の存在。特別な役割であるとは思うが、トーキーが主流の今の状況では、完全に時代の遺物。彼らのまともな仕事ぶりが言われる、そっちに重きが置かれるのか、と思いきや……
思っていたのと違う、部分を差っ引いても、90点までしか得点できない。それは、別に演者がどうこう、というのではなく、どうしても現代寄りの解釈の元で映画を作っていると理解したからである。
詐欺師の片棒を担ぐことになってしまった弁士志望の男性の悲哀と実力をまざまざと見せられるわけだが、クライマックス手前、成田凌演ずる国定(偽名)が持ちだそうとした缶缶の中身でほっとするのかと思いきや、逆にがっかりしてしまった。
そこに本来入っていたのは、フィルムの切れ端。しかし、それは技士の想いのたまものでもあった。それを救出しようとした国定。だから、その中身の変遷ぶりに「想いのつまった」あの缶缶を救出しようとしたんではなくて??という考えに至らないともやもやしてしまうのは仕方ないかもしれない。もうひとつ。防火性能で劣る缶缶で、中身が焼失しないとはできすぎだし、仮にフィルムが紛れていたなら完全に燃えていたはずだ。ここはやはり無理があった部分だと思う。
ただ、「実際にあった無声映画」を使わず、ほぼオリジナルで劇中劇を作ってしまったのには驚いた。それに気が付いたのは、冒頭のシーンもそうだが、なんと!!モネネンが、「寛一お宮」を模した砂浜で演じるシーンに出ていたのだ。まさに周防繋がり。ここは映画ファンなら見逃せないところだったかもしれない。
それにしても、今年の映画は、子役でドキッとさせられることが多かった。冒頭の10数分間もただの捨てシーンかと思ったら大間違い。最後半に伏線となる重要なシーンも設定してあるのだが、このあたりのさじ加減はさすがだ。
締めのドタバタ、箪笥のシークエンス。笑いどころがもう少しふんだんにあったらよかったのに、と思わずにはいられない。
この期に及んで、大正後期から昭和初期のトーキーが出張ってくるまでの数年間を描こうとしたのは、監督が「変革期」を感じ取ったからだ、と邪推する。正統派弁士があの一件から、姿を消してしまうあのシーンで「もう時代は変わったんだ」を思わせるシーンにしたのは大きかった。これからスクリーンで見られる映画というものも大きく変容してしまうかもしれない。それでも、いろいろ盛り込み過ぎて、監督だからこそ伝えようとしたメッセージがきっちり伝わったかといわれると、難しい面は多々ある。
興行界の裏の部分にもやんわりと攻めた監督。それにしても、一介のヤクザの癖に射撃の腕前が良過ぎる問題は、どうしたものだろうか?

2018.6.20 間違いなく「私の一本」になった 羊と鋼の森 2回目鑑賞記

今更だが、当該映画の予告編を張っておく。


このラストの殺し文句をここで再掲させてもらう。

「きっと、あなたの生涯の一本になる」

一度だけ劇場で見た予告編。「君の膵臓を食べたい」の予告編と同様の名作臭をありありと感じさせる。多分だが、「キミスイ」と本映画の予告を作った人、少なくともコピーを考えた人は同一人物ではないか、と思う。それだけ、このコピーは秀逸だし「どれ、そこまで言うなら見てやろうやない」と思わせるのに十分である。

私は、実はこの作品、「君の名は。」三葉役で一気に興行界にその人ありと認められた上白石萌音嬢(劇中では、佐倉和音(かずね)役)の芝居を見たいというのが最大の動機だった。事務所(東宝芸能)の方針か、テレビドラマにはほとんど顔を出さない上白石姉妹。東宝の箱入り娘化させるつもりなのだろうか、今年は「未来のミライ」で妹たる萌歌嬢が吹き替えに挑戦するという。
そんなかなりハードルを上げたコピーの作品がトンデモだったらどうしてくれよう・・・「キミスイ」や「かぞくへ」あたりで邦画の実力やこれまでの認識を改めさせられたから大丈夫だとは思うが…

そして初見で、当方の映画評で初めての100点をたたき出す(ちなみに「君の名は。」は、99点)。いや、もっと上げてもいいくらいだ。それくらいこの映画にはありとあらゆるものが詰まっている。

西宮OS3本目は、この作品にすると当初から決めていた。あの、犯罪者一味の映画には最大箱が充当されているのに最小箱に近い場所があてがわれる。しかし、観客はひきも切らない。レディースデイだったことが奏功して女性陣が次から次に。100人足らずの箱だったが、半数はきっちり座ってくる。

2回目になった当作品だったが、確認するべきところは山ほどあった。特に「本当に吉行和子はしゃべらなかったのか」はかなり衝撃で、「ホンマカイナ」と思っていた部分だったが、食卓のシーン、飛びだした高校時代の外村を迎えに椅子に座っているシーン。この2カ所が生きている出演シーン(あとは死体のシーンだけ)であり本当にセリフは一言もなかった。
はじめての外村の担当。引きこもりの男性宅でのシーンは、彼がピアノ弾き始めたら、今回も感極まってしまう。14年のブランクが、演奏にも表れているちょっとへたくそなタッチであるとかも、しっかり表現できている。そこが本当にすごいのだ。
調律師のストイックさ。それがあの映像だけで伝わってくる。マジで「あなたの、生涯の一本になる」とは思っても見なかった。


2018.6.11 羊と鋼の森 鑑賞記 ※読んだら観に行くことww

予告編で「良作臭」を感じ取れた作品を見た時の当方の打率はかなり高いと思っている。「キミスイ」などは浜辺嬢の熱演をあの短い予告編で感じ取れたし、「さよ朝」も、音楽面や岡田氏と言うスタッフ側面がありこそすれ、そこまでの感動作とは、というのが実際である。

そして、5月中旬ころに、一度だけ「羊と鋼の森」の予告編を見る。山賢人に上白石姉妹、三浦友和に鈴木亮平と、そこそこにビッグネームが名を連ねる。ピアノの調律師の話で原作は「本屋大賞」をとっている。「君の名は。」三葉役の上白石萌音嬢が実体で動く初めてのスクリーンでの拝見。そして何よりも、ピアノ関連にあの盲目のピアニスト・辻井伸行氏が関わり、エンディングは久石譲氏(音楽そのものは別人がクレジットされていた)。音楽映画になることは必至だったので、これは、という思いを強くする。

幼少期の思い出話になるのだが、当方の実家には、生まれた時からアップライトピアノが、姉が芸大で音楽を専攻するようになるころには分不相応ながらグランドピアノが一室に鎮座していた。当然、使う使わないにかかわらず調律という作業は必要になってくる。彼らの仕事が正確無比であったかどうかなどは今からでは振り返ることもままならないのだが、そういうわけで、調律師とピアノに青春をささげる姉妹の話は、私にもすんなりと受け入れられる素地があった。

暗い高校生活を終わらせようとした外村の元に現れる、ピアノ調律師の板鳥。彼の仕事ぶりに引かれていく外村。それを仕事にしようと板鳥の経営する楽器店に弟子入り同然で就職する。
彼のトレーナー役になったのは柳という先輩調律師。某大河では南の地で孤軍奮闘頑張っている鈴木亮平だが、この作品自体が北海道・旭川周辺が舞台。もちろん、クランクアップ後に大河に入っているだろうなので、あのような恰幅の良さはこの作品では披露していない。
いくつかの得意先に柳と同行して技や技術を会得していく外村。そんな彼らが訪れたのが佐倉家。ピアノ大好きの姉妹がいる御宅だった。けして美人ではない上白石姉妹だが、ピアノの前に座ると豹変するから面白い。役者であると思い知らされるシーンである。
独り立ちを勧められ最初に訪れた御宅は、引きこもりの男性がいる家。だが、この作品の最大の鑑賞ポイントを持ってくる。
そう。外村が言う営業セリフ以外、何も言葉が紡がれないのだ。あるのは、調律の終わったピアノを弾く男性の生き生きとした表情だけ。ピアノの間から出てきた、その男性の幼少期のトロフィーを持った写真で「そこそこの腕の持ち主」だとわかり、それでも14年間ピアノに触っていないことを調律記録から探り、影をまといほこりまみれだったアップライトを光り輝く仕上げで男性を迎え入れるシーン。まさに映像表現だけでこの間の男性の今まで(両親がどうして亡くなったのかの言及はないが)を想起させて見せたのである。
子ども時代の男性がピアノを弾くシーン。私は思わずスクリーンを指さす。こんな演出を持ってこられたら、私はどうすればいいのか…グジョグジョではないものの、あまりの出来事にじわわっと出てくる涙を止めることができなかった。そしてその瞬間、外村はこの仕事の重要性を悟ったのだと思った。
あらすじばかり書くと鑑賞の妨げになるのでここらで止めておくが、まずこの中盤のシーンは一つの山であり、感動もできるシーンであるとだけ言っておく。

それから佐倉姉妹の異変や、それに伴う自信喪失、祖母の死、職場への復帰や柳の結婚など、外村を取り巻く環境が矢継ぎ早に変わっていく。
最後は二次会パーティーのピアノはどうあるべきか、を外村が自分で答えを見つけ出し、「一人前」になれたと周囲らに納得させ、コンサートチューナーを目指すと言うところで終幕となる。

先に得点を発表する。見事100点である。
正直言って、途中に貼られた伏線が回収される最終盤。それだけでもうお腹いっぱい。「リズ」「さよ朝」などと同様に、ピアノのソロだけで感動のあまり泣いてしまうほどの出来だった。
何より、セリフの無い芝居の多いこと。ドイツ人のコンサートチューナーを終える板鳥の元に現れる外村。辞めるといって飛び出した際においていったハンドルを板鳥からつき出され、それを受け取る。去り際の板鳥も、ハンドルを抱える外村も、一切言葉を発しない。このシークエンス自体がほとんどセリフがないのだが、それだけですべてが伝わるのだ。
ああ、なんという「無言の重さ」よ。その最たるものは、外村の祖母役として出演していた吉行和子である。今までの映画で、出演したらなにがしかのセリフがあるのが当たり前の興行界にあって、吉行クラスに「一言もしゃべらせない」という大胆にもほどがある演出をやってのけたのである。これには度肝を抜かれた。
もちろん、先述したように「無言の重さ」…多くを語らずとも、外村を見守っている、唯一の理解者という書かれ方も納得がいくし、そこでの語りが余計なドラマを生み出しかねない。映像を見せることに傾注した監督の思いがひしひしと伝わってくる。

調律という仕事のストイックさ。それが伝わるからこそ、この映画は見てよかったといえるし、かなりの衝撃を持って迎えられた。興行という面で言えば、4日目/夕方回であるにもかかわらず、10名足らずというびっくりするほどの入りの悪さ。多分に犯罪者一家(血がつながっていないから連中でいいか…)を描いた映画にすべてを持っていかれているのだろうと思うが、この映画に悪人はだれ一人登場していない。こんな芸術的な作品があまりに入っていないのは「きみの声をとどけたい」がさっぱりなままで埋もれてしまったのに等しい。

なので、ぜひとも見ていただきたいのである。この作品の肝、というものは、あちこちにちりばめてある。それを探るべく、もう一回くらいは動員を積んでみたいとさえ思っている。
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