私自身は、周防正行監督作品は初対峙である。地上波でも一度も見たことがないはずで、特に上白石萌音嬢主演の「舞妓はレディ」を見逃しているのは如何ともしがたい(まあ、このとき映画鑑賞が趣味にはなってませんからね)。
だが、「Shall we ダンス?」をはじめ、肩の凝らない作品を作らせたら、右に出るものはいない。なので、登場人物のいかんを問わず見る気満々になっていた。

月曜日、というより、16日はOS系のサービスデー。ナイト回では割引率としてもうまみはないが、1200円で新作も見られるとなったら、見ない手はない。
で、勇躍劇場に突撃するのだが……
ソロ男女2名ずつ、カップル二組、以上wwww閑散ぶりに驚くばかりである。

すでに映画は市民にとっての唯一の娯楽ではなくなりつつあり、一時期の不振を払拭したとはいえ、黄金期からは程遠い動員でしかない。その上、映画を取り巻く環境は日々進化している。スクリーンで勝負しないでも「売れる」と認識されつつあるNETFLIX専用のドラマや映画が勃興し始めている。劇場の中でも、普通にスマホが使われ、マナーの低下には歯止めがかかっているとは思えない。
そんな中でトーキーが出張ってくるまでの過渡期に活躍した映画を説明する「活動弁士」の存在。特別な役割であるとは思うが、トーキーが主流の今の状況では、完全に時代の遺物。彼らのまともな仕事ぶりが言われる、そっちに重きが置かれるのか、と思いきや……
思っていたのと違う、部分を差っ引いても、90点までしか得点できない。それは、別に演者がどうこう、というのではなく、どうしても現代寄りの解釈の元で映画を作っていると理解したからである。
詐欺師の片棒を担ぐことになってしまった弁士志望の男性の悲哀と実力をまざまざと見せられるわけだが、クライマックス手前、成田凌演ずる国定(偽名)が持ちだそうとした缶缶の中身でほっとするのかと思いきや、逆にがっかりしてしまった。
そこに本来入っていたのは、フィルムの切れ端。しかし、それは技士の想いのたまものでもあった。それを救出しようとした国定。だから、その中身の変遷ぶりに「想いのつまった」あの缶缶を救出しようとしたんではなくて??という考えに至らないともやもやしてしまうのは仕方ないかもしれない。もうひとつ。防火性能で劣る缶缶で、中身が焼失しないとはできすぎだし、仮にフィルムが紛れていたなら完全に燃えていたはずだ。ここはやはり無理があった部分だと思う。
ただ、「実際にあった無声映画」を使わず、ほぼオリジナルで劇中劇を作ってしまったのには驚いた。それに気が付いたのは、冒頭のシーンもそうだが、なんと!!モネネンが、「寛一お宮」を模した砂浜で演じるシーンに出ていたのだ。まさに周防繋がり。ここは映画ファンなら見逃せないところだったかもしれない。
それにしても、今年の映画は、子役でドキッとさせられることが多かった。冒頭の10数分間もただの捨てシーンかと思ったら大間違い。最後半に伏線となる重要なシーンも設定してあるのだが、このあたりのさじ加減はさすがだ。
締めのドタバタ、箪笥のシークエンス。笑いどころがもう少しふんだんにあったらよかったのに、と思わずにはいられない。
この期に及んで、大正後期から昭和初期のトーキーが出張ってくるまでの数年間を描こうとしたのは、監督が「変革期」を感じ取ったからだ、と邪推する。正統派弁士があの一件から、姿を消してしまうあのシーンで「もう時代は変わったんだ」を思わせるシーンにしたのは大きかった。これからスクリーンで見られる映画というものも大きく変容してしまうかもしれない。それでも、いろいろ盛り込み過ぎて、監督だからこそ伝えようとしたメッセージがきっちり伝わったかといわれると、難しい面は多々ある。
興行界の裏の部分にもやんわりと攻めた監督。それにしても、一介のヤクザの癖に射撃の腕前が良過ぎる問題は、どうしたものだろうか?