物語・映画やドラマといった映像作品につき物なのは、深みを与える「伏線」である。特に探偵もの…アニメーションで言えば名探偵コナンあたりは、これなくしては謎解きにも、事件解決にも至らない。
そんな中にあって、見事なまでに『伏線効果』を上げたあのセリフを上げずにはいられない。

 「そのもの、蒼き衣を纏いて金色の野に降り立つべし」。

宮崎アニメの金字塔、と言っても過言ではない、「風の谷のナウシカ」で、大婆様が発したこの一言。最後にほぼ見開くこともできなかったはずの目をこれでもかと見開いて、そらんじる。画面を見る我々にも、「あの場面のセリフがここで生きてくるとは!!」と思い知らされ、当方がこのアニメーション映画を評するときに決まり文句として使う「大のおとなを感動のるつぼに叩き落とす」最強の演出として今まで君臨してきた。
小さなところでは、「となりのトトロ」であえてメイの履くサンダルをアップにして映すという伏線だ。その後、池でサンダルが見つかるときに全く違う柄を提示させて、観客には先にメイは沈んでいないと思わせる小憎らしい演出。画面の騒動とは裏腹に、待ちかまえられる親切設計でもある。

伏線があるのとないのとでは、深みも、その後に押し寄せる感動も理解度にも雲泥の差が出る。意外に苦手とされていた脚本で賞を取るなど、この作品の練られた伏線の数々は当方を号泣させるにふさわしいできになっている。

・歌詞で伏線を形成
度肝を抜かれたのがこのスタイルである。すでに当方は記事にもしてあることなので、詳細はこれを読んでいただきたい。普通は、ここに気が付かないはずだ。これも、複数回鑑賞し、主題歌4曲を咀嚼しまくった結果導き出されたものである。

・「名前は、みつは」
いきなりのオープニングシーンですら、この作品は伏線を仕込んである。3年前の出来事、知らない相手から組紐をもらう。しかも自身がその渡した相手に憑依している・・・。初見ならわけがわからなくて当然である。だが、同じシーンが、あの局面で展開する。すべてがまとまり、それは彼らがそんな昔からムスバレテいたことをあらわすことになる。

・「お前は、誰だ?」
瀧が三葉の体に入ったその日。瀧は混乱する意識の中でノートに書きなぐる。だが、これを瀧が自分自身で言う局面は、まったく異なっている。そう。「知らない相手に問いかける言葉」ではなく、「知っているのに誰だかわからなくなっている」状況で発したのだ。
彼らにとっては、初恋などというレベルを超越した恋愛に発展していたことをこの瞬間知り、まるで我々も何かを喪失したかのような錯覚にとらわれていく。もうこの時点で「瀧になり切っている」自分がいる。
ちなみにこのせりふ、口噛み酒トリップ内で三葉が「お前は誰だって、貴方こそ誰よ」と問いかけている場面と、町長と瀧の入った三葉が対峙した場面で、町長たる宮水トシキも放っている。

・「たそがれ時」=「カタワレ時」
ユキちゃん先生の授業も凄い伏線であった。小説から彼女の発言を引用する。
『夕方、昼でも夜でもない時間。人の輪郭がぼやけて、彼が誰か分からなくなる時間。人ならざるものに出会うかもしれない時間。』(p.25)
二人が「カタワレ時だ」と声をそろえるためには、どちらにもこの言葉の意味と情報の所得が必要になる。三葉は授業で知っていたが、瀧は三葉に入った時、御神体訪問後に四葉から聞かされている。もし一葉の声掛けがもう少し早く、意識が現代に飛んで行ってしまっていたら、カタワレ時を知らずにいたかもしれない。いろいろギリギリだったとも解釈できる。

・「繭五郎の大火」
伏線というにはこれのみしっかりと回収されているわけではない。事実として提示されているにとどまっているが、「資料や古文書が焼けた」事実は、祭事そのものが彗星落下を表現していたことともつながりがある。→当方の解析記事はこちら。

・口噛み酒
ただ単なる「神事の一環」として見せていただけの口噛み酒。だが「三葉の半分」と知らされた瀧に強い印象を与える。三葉を助けたい一心で飲用し、それが口噛み酒トリップを呼び込み、最後の入れ替わり=全員が生き残る時間軸への移動を可能にしたのだ。

・「ムスビ」
組紐が時間の流れそのものをあらわしている、は新海流の解釈と考えているが、ご神体に向かうところで語られる一葉のセリフは、とてつもない重さを持っていることが分かる。ナウシカでもそうだが、老人の語る言葉は、その一つ一つが重い。そして、14歳の瀧と17歳の三葉は組紐によってムスバれるのである。

・手のひらの文字
「お前は、誰だ?」に対する返信として書かれた「みつは」。だが、2013年の三葉が2016年の瀧の手に書こうとした一画目の位置は決して名前の「み」の一画目とは異なる場所に書いてある。みつはと書かずに彼女は何と書こうとしたのか。→解析記事内容はこちら。そこにたどり着いたとき、瀧も同じ思いでいることに気づかされ、又涙腺が崩壊してしまうのだ。

これですべてだと思いたいが、ここまで仕込んであるところが恐ろしい。そもそも「歌詞に伏線効果を仕込む」と言った今までの作家氏がだれも挑戦したことのないこの一手法だけを取っても、新海氏の表現の仕方の幅広さに敬服する。
本当に我々は、新海氏を過小評価/ヒットできる作家だと認識できていなかった部分を反省すべきだろう。
そして少なくとも私は、「さらなる進化を遂げる」であろう新海氏の次回作が、非常に待ち遠しい。
まだ「君の名は。」が公開中であるにもかかわらず・・・。