多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

分析

考察「君の名は。」(10・終) 「こんな力」の凄さ

「なぜ、「君の名は。」はヒットしたのか?」「「君の名は。」を深掘る」・・・

当方は今まで、このアニメーション映画に関して、実に記事数にして80以上も上梓してきた。→現在下書きになっている、旧来の記事だけで20枚強。映画鑑賞記も毎回上梓してきているので、全体で言えば100越えは確実。

2016.10.1の初見の段階で、複数回視聴には確信はあったものの、二桁鑑賞は当然想定外。その過程で、書きたくてしょうがない、解析魂に火がついてしまった。
「あれはどうして」「これが気になる」…そのたびごとにスクリーンに座った7か月間だといっても過言ではない。

そして20回目を数え始めた段階で、当方は、とうとうこの作品の「本当の姿」を目の当たりにする。

    「忘れる」ことの尊さ

人間の記憶は本当にいい加減だ。
川村氏も小説の解説でこう書いている。
  「ひとは大切なことを忘れていく。けれども、そこに抗おうともがくことで生を獲得するのだ」(p.262)。
あの場面の二人。思い出せない/忘れたのではない。完全に消されてしまった記憶。「お前は誰だ」の言葉が持つ重さに押しつぶされそうになる。
私がどぎついリピーターになってしまったのも、このことが大きく起因しているのではないかと思う。「大事な人、忘れたくない人、忘れちゃだめな人」をついぞ作れなかった。名前と顔が一致するほどに思いを寄せた人も片手では足りないが、そのほとんどの残像は消えかかっている。
「会えば絶対、すぐに分かる」・・・。彼らの恋愛感情は、もはや名前を必要としないまでに昇華していたのだった。名前を知らなくても、二人の間の「ムスビ」は、「捻れて絡まって、時には戻って、またつながる」組紐のごときものだったのだ。

二人は、コンクリートジャングルをあてどもなくさまよう。1000万都市・東京で、二人は別々の駅に降り立ち、待ち合わせしたわけでもないのに、須賀神社の階段で出会う。「そんなやつおれへんやろぅ」と言いたくなるが、彼らにとって「再会する」という選択肢はそれがいかに無理筋であっても避けられないムスビそのものである。歌詞も言っているではないか(当方号泣中)。

 離したりしないよ 二度と離しはしないよ、やっとこの手が 君に追いついたんだよ

彼らの恋愛観は、正直すべてを映像に盛り込んではいない。わかりやすく表現せず、見る人に『忖度させる』ことで奥行きを感じさせる方向にした。これこそがこの作品が、多くの人々の共感を呼んだポイントだと思っている。何でもかんでもわかりやすく書くことは、通り一遍の評価/金太郎あめ的均一性しか生まない。人によって感涙ポイントがさまざまであるからこそ、観客が呼べたのである。

「映画にはまだ、こんな力があるんだと教えられました」。
この「こんな力」こそ、観た人すべてがこの作品に描かれていない彼らを想い、育て、応援し、彼らの動向が気になって仕方ない状況を作り出した力といえなくもない。実際、ここにそんな人が一人いるww
もうこの作品を越えうるような作品が出てくるとは到底思えない。仮に作られるとしても、それができるのは、新海氏ただ一人だと断言できる。
スクリーンではほぼ死滅状態。だが、「いつか消えてなくなる」のもムスビ。その日を粛々と迎えたい心境である。



「君の名は。」を深掘る 総集編

20タイトルで一応解析は終わった"つもり"で居た。
ところが、すでに詳細を調べている人ならお気づきだろうが、3月に上梓した文章は、そのほとんどで改修や修正を加えてきている。
→証拠、というかこちらが改修した記事の一覧 その1 その2 その3 あとは、タイトルに改修済みなどを確認していただきたい。

いままで20回以上も鑑賞したのも、実際のところ、「映像からでしか答えは見つからない」からこそ、スクリーンに座り続けたといっても過言ではない。すでに「何度見ても発見がある」と言ったのは大げさでも何でもない。

劇場で見られることはほぼなくなりつつある(たまたま住んでいる至近に上映を続けているシネコンがあるのは奇跡と言ってもいい)状況で、結論をそろそろ出さないといけない時間帯に入ったと思っている。
何より、一番おかしいと言ってもいい、「夢を見とるな」で囲まれた部分の記述をどう解釈するかを披露することで、このストーリーが恐ろしく練られたものであることに今更ながら気が付くのである。

さて、「夢を見とるな」と一葉に問いかけられた時点の部分もすでに解析を終えている。→記事はこちら。しかし、ここからの瀧の日常は、いろいろとおかしなことだらけである(下線で示してある)。
1.10月3日のはずなのに、まるで学校は休みかのように10時過ぎに飛び起きる。
2.奥寺先輩のLINEを受け取る。三葉が翌日にデートを申し込んでいたことに気が付く。
3.家を飛び出す瀧。だが、扉の開く位置が違う
4.明らかに休日っぽい四ツ谷駅前。
5.「郷愁」写真展で、突然奥寺先輩がカーディガンを羽織る。セカンドバッグには入っている感じなし。
6.瀧、先輩と別れて三葉に連絡を入れる。もちろんつながらない
7.入れ替わりがなくなったことに気が付く瀧は、写真展で見た実物を探索せず、スケッチを描き起こす
8.授業中は、周囲と全く違う行動をしている周りがノートを取っているときにはぼぅっと外を見たり。
9.高木と司とも距離を置き始める。
10.いよいよ飛騨探訪。だが、日程はともかく、出発時刻を指定・漏らしていないにもかかわらず司・奥寺先輩までもが瀧を待ち伏せ、飛騨探訪に同行する。
11.新幹線車内の描写が全くの逆
12.新幹線車内アナウンスが、通り過ぎている品川/新横浜を案内している
13.名古屋駅。地下通路を9時台(それもかなり早い段階)に通過。11番線の出発案内に9:24発の中津川行の表示が認められるので、少なくとも9:20頃に通過しているのは間違いない。
だが乗ったワイドビューひだは10時台の列車
14.名古屋駅。9:46発の中津川行は金曜日なのに土日ダイヤの10番線から発車している。
15.「ワイドビューひだ」車内。味噌カツ弁当の日付がありえない(15.10.9)
16.飛騨古川駅。本来入線しない番線で客扱い。
17.飛騨古川駅。排気ガスの出口は逆側。あの煙突状のものはマフラーではない(あの突起は、信号炎管)
18.飛騨古川駅。着ぐるみは常駐しておらず、当然動かない
19.スケッチを手に糸守捜索。だが、至近の特徴的な地形のはずなのに誰も言い当てられない
20.ラーメン店吉野。瀧だけなぜかTシャツでラーメンを食べている。
21.ラーメン店吉野。バックに流れる野球中継。応援があったことから国内の試合と断定。だが10/21金曜日に試合の設定はない(日本シリーズ自体が金曜日に試合を行わない)
22.アプリを開くまで保持されていた三葉の書いた記録。文字化けし、消えていくはずがない
23.古川図書館。検索画面が嘘サイト(cwf-search.jp?様の記載)
24.目録類の大仰ぶり/ページ数の多さ。
25.勅使河原と名取の並び=隣どおしって…
26.さやかの名前の表記。公式資料なのに誤字はあり得ない。
27.「つい2,3週間か前に、「彗星が見えるね」ってこいつは俺に言ったんです。だから…」ここで一葉の問いかけ。「俺は…何を?」

よくもまあ、これだけ「間違い探し」をあの時間帯にぶち込んでくれたものだ。ここだから言うけど、私、大の間違い探し好き。しかし、だからこそ、私は声を大にして言える。

結論:
一葉の「夢を見とるな」で囲まれた部分は間違いなく瀧が起きながらにして夢を見ている時間帯。描写のあまりにもいい加減ぶりや周りの無関心ぶり、矛盾点がこれほど多いのは明らかに異常。

解析厨の諸氏は、「ウワ、間違っているよ」という指摘ばかり。例えば立花家の扉(3)や、新幹線の座席配置の妙(11)は有名なところだが、もし瀧の夢の中の出来事で、あやふやに書かれたとするならば、全て納得のいく回答が得られる。
新幹線の車内も、列車の描写にまで定評のある氏が「逆に描いちゃったね、テヘペロ」なんて言うイージーミスを犯すとは思えない。列車絡みの記述もおかしなところだらけ。もちろん普通に鑑賞している分には、11~18の内容は、気が付きにくい。それであるがゆえに、「ほらほら、間違えて書いてますよ」とドヤ顔で我々に挑戦をしかける監督氏の顔が目に浮かぶ。

では本当に夢だったのか…
私はここで廃墟の糸守高校のシーンに立ち返る。あのとき、瀧は、司たちに説明しようと日記アプリを開こうとした。だが、その刹那、文字化けして消えていく日記たち。本来なら(三葉の生死関係なく)残っていてはおかしい日記。それがあのときまで残っていた…
これで私は確信した。アプリを開くまでもなく、本当は消滅していたはずだった。それが都合よく残っていた。そしてこれ見よがしに、瀧に消失を見せつける。これすなわち、夢の中の出来事だと解釈できるのだ。瀧が意外に感情を表に出さず「消えてく…」とぼそっと言っただけにとどまっているのも怪しい。

でも我々の目には、「すべて現実に起こっていること」としか思えない。特にラーメン屋の親父という第三者がからんでいることは、夢と思わせるには少し力技すぎる。10/22にご神体のふもとまで送ってくれたこともあるので、前日の白昼夢で出会った、とするのも難しいし、連絡先を知っていることから実際に出会っていることも疑いようがない。
だが…ラーメン店店主には糸守出身という"ムスビ"が存在する。瀧と店主がムスバレテいると何が起こるのか…それはムスバレテいない町の人々がスケッチに無関心すぎるところからも明らかである。糸守を知っているのみならず、スケッチに心をひかれ、ムスビつく。この結果、瀧のゾーンに店主も入り込んだとすると、無理やりのような瀧の夢の中に登場する人物という意識が出てくる。

苦しい説明なのは百も承知である。だが、それまでの瀧とその周りの描写は矛盾だらけで整合性の取れない事柄ばかり。これが練り込まれたことで、何が起こったのかというと、あのデートからの中盤、見れば見るほど深みにはまるかのような記述が軒を連ね、遂には、本当に夢を見て突如現実に引き戻されたかのような、「俺は…何を…」という嘆息をも導き出すのである。

実際、このストーリーの中で、意味や発言の趣旨がつかめない言葉は意外に少ない。だが、このときの瀧の発言は、唐突過ぎるし、のちのシーンともつながらない。シークエンスとして独立した、一種の「切った」発言とするのが妥当であり、であるからこそ、それまでの行動すべてが現実と違うものという見方もできる、ということである。
その中に三葉の二つに割れた彗星の残像が含まれている。これも夢と見ることもできるし、一方同じ物理現象であるのにまったく違う書かれ方をした口噛み酒トリップ内の三葉が隕石(というより彗星本体?)に直撃を食らうかのような描写も間違っている。最後に宮水家近傍に落下した隕石の引き起こした災害が「正解」であり、それがすべてである。

当初の私は、「瀧にタイムワープする能力が備わった」という幼稚な結論で解析を進めていた。だがそれも回数見ていくことで間違いに気づかされる。二人が入れ替わることになったのは確かに原因は不明だが、彼らがムスビツイテいたからに他ならない。そしてそれを具現化したのが、2013.10.3の組紐の受け渡し、とした。
3年間のタイムラグ。本人たちがそこに気が付くのは、瀧が自らでご神体を訪問したとき。それまで一切の矛盾を感じずにいられたのは、夢と現実/翌日には現実に戻っているというずぅっと入れ替わったままでないところが影響していたと思われる。

彼らには、本当なら強烈に覚えていてもおかしくない、それまでの入れ替わりや隕石災害で人的被害を回避させる立役者的存在になったことすら記憶から消えている。もちろん、お互いがお互いを求めあうかのような熱情を帯びた恋愛に発展していたことも。喪失、記憶の忘却がこの作品のテーマにあるから、過去を思い出したり、そう言った恋愛をできなかった層にも強くメッセージとして届いたんだと思う。そうでなければ、ほぼ全世代を巻き込んだといえる1900万人超の観客動員は説明のしようがない。

草稿段階から含めて、解析記事は、実に80タイトル近くに及ぶ。それでも完全に丸裸にできた、とは思っていない。ぶっちゃけ7割くらいしか読み解けていないと考えている。しかも自身の中でまとまったというレベルであり、原作者たる新海氏と意見が同一な部分ってほぼないのではないか、とさえ思う。
それでもここまで一タイトルに関われたこと・解析できたことは自身の文筆活動に新たな一石を投じてくれたことは間違いない。

DVD・BD発売記念と称して、又同一タイトルでお目にかかりたいところである。








考察「君の名は。」(9) 「泣ける映画」にした意図

「全世界に贈る エンターテインメント超大作」と煽りまくった某スタジオ第一回作品は、予告からこの煽り文句が消え、短いバージョンにランクダウン。なんか、この推移を見ているとハズレ確定/少なくとも「煽られただけ」に終わりそうな予感がする。
→証拠映像ww

まあほかの作品をDISるのはここまで。
今まで幾多のアニメーション映画を見てきたが、本当にここまで見るたびに泣かされ、それどころか泣いている時間帯がどんどん長くなっていくという末期症状を、ここ最近の鑑賞回で発症するという事態になっている。
以前ならラストの吸い込まれるような青空を見て、心が落ち着いていたのだが、20回目あたりから様子がおかしい。21/22では涙がむしろ止まらないのだ。

当方は「この作品を見てなぜ泣けるか」については自身ですでに答えは出している。→考察(5) を参照のこと。 だから、どちらかというともう一度その内容で書こうと思わなかった。
だが…
彼らのことが気になるあまり、感情移入を飛び越し、スクリーンの中の彼らと同化してしまったかのような感覚。それが実現できる映画に出会ったことが一度もない、というところが気になったのである。

そもそもこの物語は、瀧と三葉のラブストーリーという体裁を取ってはいるが、実際には瀧がメインである。序盤の入れ替わりのところはともかく、「前前前世」以降、瀧の入った三葉(精神は瀧)→本人に着地(2016.10.3)以降、二人の内瀧しか出てきていない。
ここに瀧と我々観客(特に男性)の間の距離感がぐっと縮まる。三葉を想って手がかりとなるスケッチを描く/現地に向かう/そして驚愕の事実を知る…。実はこのあたりでもうすでに瀧の精神が我々の中にも入り込み始めている。
図書館での資料閲覧でもまだ三葉の死を受け入れられない瀧。災害が起こったことと三葉の死がリンクしない。認めたくない…私だって、初恋の人がつい最近まで逢えていたのに災害に巻き込まれて死亡したとしたら、同じ行動を取っていると断言できる。いくら3年前の出来事であっても、だ。

我々は、この瀧の健気さにすでに心を打たれる。そして、自分で解決しようと試みる。「あの場所なら…」。
そしてご神体には到着し、口噛み酒を飲み、望み通り2013.10.4の三葉にはいることに成功する。実は彼らはお互い抱きしめたりしていないが、「三葉だ! 生きてる」の次にとった行動は、泣きながら自分を抱きしめている姿である。精神と肉体は異なっていても、この行動で彼らがもはや分かちがたいまでの関係に至っているとわかるのだ。そしてここでも少し感動する。
父親の説得に失敗してからは、まさにこちらまでが不安になる。だが、自転車を借り、口噛み酒トリップ・上京編wを再度思い出しているシーンは、最後の組紐の受け渡しですべてがつながり、それが「名前を知らせると同時に思いの伝達である」と気が付くことでまたしても心を揺さぶられる。

ここから先は、もう説明の余地もないだろう。再会を果たしながら夕やみがあたりを支配する。いとしい人は忽然と姿を消す。「言おうと思ったんだ」…。なぜそれが言えなかったのか?それは、ただ単に彼が晩熟だから、というのではなく、あまりに時間が短すぎたからだ。名前を書かずに「すきだ」と書いたのも、名前よりも大事なものを伝えたかったから。こんな恋愛ストーリーを創出した新海氏は、俗に童貞臭漂うとやゆされることもあるのだが、彼の描く男性陣が恋愛下手だからこそ、真摯に向き合う姿が初々しく、そしてアツいのだ。

監督氏自身が、このシーンで観客を泣かせる方向にかじを切るという采配をしたことが、この映画大ヒットの要因とみる。伏線としてのカタワレ時。二人はその間だけのロマンスを再度演じながら、その短い時間で濃密な時を過ごす。そこに笑いを含ませたこと、ペンを落とすというこれ以上ない表現で実体の消えた三葉という喪失感を増幅させ、我々を不可逆の世界にもう一度もどす。彼の独白が、いかに彼が三葉を想っていたかを思わせ、だから、もう会えないかもしれない結末を想起し、そしてこの時点で、瀧になり切っている自分がいる。

そう。
いくら今までのアニメーション映画が秀逸だといっても、登場人物になり切る・演技することにまで至る作品は一本たりともない。今までの感動は、所詮他人事。『火垂るの墓』もあのきょうだいがかわいそう、という憐みの涙でしかない。
だが、この作品は違う。瀧の、三葉の気持ちがストレートに伝わるのだ。本人が憑依したかのようになるのだ。演じたくなるのだ。そして、そのことで彼と同じ境遇・感情に支配され、結果として画面上の彼・彼女が号泣するのと同じ行動を取ってしまうのである。
そうなった背景にあるのは、やはり主題歌の存在が大きい。歌詞の凄さを再認識するに至った次第である。

彼らの想いに触れた時…つまり私の場合は3回目の鑑賞時から、ということになるが…、素直に感動し、涙を禁じ得ない。出来得る事なら、初見の時点で大感動できていればよかった(プラス10縄くらいは行っていたかwww)のだが、気が付けただけでも満足である。解析・考察を続けたこともプラスに働いたことは間違いない。


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