所詮ドラマは時系列というものを無視しがちである。
「199X年、世界は、核の炎につつまれた!」とは、かの有名なバイオレンス漫画のでだしであるが、ご承知の通り、199X年に核戦争が起こった事実はない。この時点で、この漫画の書かれている世界が虚構であることを指し示している(最も、1980年代の原作であり、1990年代にもしかすると核戦争が起こっていたかもしれない)。だが、核戦争はこの物語においては、ツマ程度であり、無法化したことのほうがより重要である。つまり、無法化したことの前提として、人類を絶滅の淵に追いやった核戦争を引き合いに出さないと、「力こそが正義」となってしまった世界観を上手く説明できないのである。
かように、設定というものは、作品をいい具合にも、悪い方向にも向かわしめる、重要なファクターである。
ところが、リアルに事態を追いかける、ドキュメンタリー風な味付けのドラマは、ともすればことの大きさに飲まれる危険性をはらんでいる。大災害が絡んでいるとすればなおさらである。
この、あえて「禁じ手」といってもいい、ちょっと前の過去を穿り出すような設定にした今回の「あまちゃん」は、舞台を東北・岩手にしたこともさることながら、避けて通れない「3・11」を経過することで物語を最後に盛り上げていくというとんでもない手法を取っている。
他方、「純と愛」では、舞台の設定は、大阪の一流ホテル/大阪の木賃宿/石垣のホテルと、どこでも似たり寄ったり。宿泊施設つながりにしてしまったことで、そんなに上手いこと繋がるんかいな、と邪推してしまう、「ドラマ」としか見られない設定にしている。
もちろん時期は「今」。今を投影しながら、物語を進めていくわけだが、ぽんと石垣のホテルを提供するパトロンの存在など、無理というより、そこまで自己犠牲を払える人が日本にいるというところが少々怪しい。
「純と愛」にとっての過去は、愛(いとし/男)の母親や純の父親の一種、暴力的な、あるいは精神的な抑圧というものを感じずにはいられない、悶々としたものを引きずっている。ところが「あまちゃん」にでてくる、主役級の人間に暗い影を持った人間はごく僅かである(ユイが、震災後被害の有様を見てトラウマになった瞬間があるが、これとて物語の中では一瞬)。勿論、プロデューサーとアキの母親・春子との関係や過去の芸能状況をフラッシュバックさせるところはあるが、それは「現実」の世界で起こっていたこと。つまりつらい過去の投影ではないのである。
極め付けが登場人物の生死。「純と愛」では、純の父親を死なせ、母親は認知症。しかももう一人の主役である愛を意識不明にするという、ここまでやるか、というくらいのブラックな設定にした。ところが、「あまちゃん」では、あの未曾有の災害が起こり、確かに登場人物の周囲では何人か死んでいる、という報告はあるものの、それが具体化した形で発表されたことはない。それどころか、登場人物が誰一人死んでいないのである。飲んだくれの夏の夫・忠兵衛ですら、最終盤に生きて帰ってくるくらいである。
ドラマとしては、どちらが現実に即したものであるか・・・。今こうやって設定をいちいち文にしたためていると、本当のドラマ的設定は、「純と愛」であるな、と感じる。
ここまで読んで「じぇじぇじぇ」と声に出したあなたwwwよくわたしの文を読んでいらっしゃる。
でもヒットしなかった・・・。そこが今回の比較検討倶楽部の真骨頂なのだ。
視聴者が求めるものを提供する、これがマスコミ人士に科せられた使命である。「純と愛」は、たしかにドラマの体裁をなしていたし、基本に忠実。どろどろとした人間関係や立ちすぎているキャラ全開の登場人物と、困難しか立ちはだからない主人公の頑張りを見せることが「正義」だと確信していたからこそ、最後の心情の吐露があり、最後まで出来上がらなくても、それが人生そのものなんだよ、と言いたげな最終回に出来たのだと思う。
ところが「あまちゃん」ははっきりいってすべてがハチャメチャ。田舎ものの芸能界デビューはもとより、プロデューサーへの反骨心から会社を立ち上げる春子、挙句の果てに、関わった登場人物が続々と北三陸に帰っていく・・・。正直言って自分勝手に動いているとしか見て取れない構図である。でも、ヒットしているのだ。
1回目のまとめに入りたい。
くどいようだが、ドラマとして全体を俯瞰したときに体裁をなしているのは確実に「純と愛」である。だがヒットしなかったのは、その根底にある、「暗さ」「ブラック加減」にあると思っている。朝のはよから、こんな、いじめ抜かれる主人公を見て「今日も一日がんばるぞ」といえるのはよほどのMな人しかいないはずだ。
だが、「あまちゃん」は違う。人生これ楽観主義の塊のアキの笑顔と前向きな思想が、周りのドタバタをかもし出し、それがドラマではなく、コントのようなつくりになってしまっている。しかも、瑣末な情報や、現役の芸人の名前(挙句の果てにサカナクションまでさりげなくインサートするこのばかっぷりがイイのだ)まで繰り出して視聴者に笑いを提供する。じっくり見た人には「お得感」が獲られ、さらっと見た人にしても何の戸惑いもなく引っかかることもなく流れていく。そう。コントがドラマ化したような作品が「あまちゃん」なのである。
人生の悲哀をドラマにした「純と愛」。他方「なるようになるさ」で貫き通した「あまちゃん」。今の日本にとって、どっちが望まれていたのか、この一行ですべてが言い表せていると思う。
「199X年、世界は、核の炎につつまれた!」とは、かの有名なバイオレンス漫画のでだしであるが、ご承知の通り、199X年に核戦争が起こった事実はない。この時点で、この漫画の書かれている世界が虚構であることを指し示している(最も、1980年代の原作であり、1990年代にもしかすると核戦争が起こっていたかもしれない)。だが、核戦争はこの物語においては、ツマ程度であり、無法化したことのほうがより重要である。つまり、無法化したことの前提として、人類を絶滅の淵に追いやった核戦争を引き合いに出さないと、「力こそが正義」となってしまった世界観を上手く説明できないのである。
かように、設定というものは、作品をいい具合にも、悪い方向にも向かわしめる、重要なファクターである。
ところが、リアルに事態を追いかける、ドキュメンタリー風な味付けのドラマは、ともすればことの大きさに飲まれる危険性をはらんでいる。大災害が絡んでいるとすればなおさらである。
この、あえて「禁じ手」といってもいい、ちょっと前の過去を穿り出すような設定にした今回の「あまちゃん」は、舞台を東北・岩手にしたこともさることながら、避けて通れない「3・11」を経過することで物語を最後に盛り上げていくというとんでもない手法を取っている。
他方、「純と愛」では、舞台の設定は、大阪の一流ホテル/大阪の木賃宿/石垣のホテルと、どこでも似たり寄ったり。宿泊施設つながりにしてしまったことで、そんなに上手いこと繋がるんかいな、と邪推してしまう、「ドラマ」としか見られない設定にしている。
もちろん時期は「今」。今を投影しながら、物語を進めていくわけだが、ぽんと石垣のホテルを提供するパトロンの存在など、無理というより、そこまで自己犠牲を払える人が日本にいるというところが少々怪しい。
「純と愛」にとっての過去は、愛(いとし/男)の母親や純の父親の一種、暴力的な、あるいは精神的な抑圧というものを感じずにはいられない、悶々としたものを引きずっている。ところが「あまちゃん」にでてくる、主役級の人間に暗い影を持った人間はごく僅かである(ユイが、震災後被害の有様を見てトラウマになった瞬間があるが、これとて物語の中では一瞬)。勿論、プロデューサーとアキの母親・春子との関係や過去の芸能状況をフラッシュバックさせるところはあるが、それは「現実」の世界で起こっていたこと。つまりつらい過去の投影ではないのである。
極め付けが登場人物の生死。「純と愛」では、純の父親を死なせ、母親は認知症。しかももう一人の主役である愛を意識不明にするという、ここまでやるか、というくらいのブラックな設定にした。ところが、「あまちゃん」では、あの未曾有の災害が起こり、確かに登場人物の周囲では何人か死んでいる、という報告はあるものの、それが具体化した形で発表されたことはない。それどころか、登場人物が誰一人死んでいないのである。飲んだくれの夏の夫・忠兵衛ですら、最終盤に生きて帰ってくるくらいである。
ドラマとしては、どちらが現実に即したものであるか・・・。今こうやって設定をいちいち文にしたためていると、本当のドラマ的設定は、「純と愛」であるな、と感じる。
ここまで読んで「じぇじぇじぇ」と声に出したあなたwwwよくわたしの文を読んでいらっしゃる。
でもヒットしなかった・・・。そこが今回の比較検討倶楽部の真骨頂なのだ。
視聴者が求めるものを提供する、これがマスコミ人士に科せられた使命である。「純と愛」は、たしかにドラマの体裁をなしていたし、基本に忠実。どろどろとした人間関係や立ちすぎているキャラ全開の登場人物と、困難しか立ちはだからない主人公の頑張りを見せることが「正義」だと確信していたからこそ、最後の心情の吐露があり、最後まで出来上がらなくても、それが人生そのものなんだよ、と言いたげな最終回に出来たのだと思う。
ところが「あまちゃん」ははっきりいってすべてがハチャメチャ。田舎ものの芸能界デビューはもとより、プロデューサーへの反骨心から会社を立ち上げる春子、挙句の果てに、関わった登場人物が続々と北三陸に帰っていく・・・。正直言って自分勝手に動いているとしか見て取れない構図である。でも、ヒットしているのだ。
1回目のまとめに入りたい。
くどいようだが、ドラマとして全体を俯瞰したときに体裁をなしているのは確実に「純と愛」である。だがヒットしなかったのは、その根底にある、「暗さ」「ブラック加減」にあると思っている。朝のはよから、こんな、いじめ抜かれる主人公を見て「今日も一日がんばるぞ」といえるのはよほどのMな人しかいないはずだ。
だが、「あまちゃん」は違う。人生これ楽観主義の塊のアキの笑顔と前向きな思想が、周りのドタバタをかもし出し、それがドラマではなく、コントのようなつくりになってしまっている。しかも、瑣末な情報や、現役の芸人の名前(挙句の果てにサカナクションまでさりげなくインサートするこのばかっぷりがイイのだ)まで繰り出して視聴者に笑いを提供する。じっくり見た人には「お得感」が獲られ、さらっと見た人にしても何の戸惑いもなく引っかかることもなく流れていく。そう。コントがドラマ化したような作品が「あまちゃん」なのである。
人生の悲哀をドラマにした「純と愛」。他方「なるようになるさ」で貫き通した「あまちゃん」。今の日本にとって、どっちが望まれていたのか、この一行ですべてが言い表せていると思う。