日本映画の金字塔。それは、ギネス記録も持っている「男はつらいよ」シリーズである。
渥美清演じるフーテンの寅こと、車寅次郎。彼が「とらや」に帰ってきて、マドンナとの出会いと別れがあり、また「とらや」から旅立っていくというこのルーティーンが延々と繰り返された50作近く。ゲストであるマドンナ役との恋模様に国民は一喜一憂していたのだった。
寅さん映画は、年末年始にしかやっていないと思っていたら、実はお盆と正月の2回撮り、しかも黎明期にはなんと一年に4作品も公開していたというんだから驚く。渥美清の体調が思わしくなくなり始める平成期に入ってから、年末映画が定着することになる(1989.12公開の42作目から)のだが、正直シリーズものには関心の薄い当方がこれを見たい、と思うほどには触手を動かされなかったのも偽らざるところである。
2019年でシリーズ50周年。50作品目のメモリアルをどう料理するのか……山田洋次監督との初対峙を終えた当方だが、もっともっと寅さんが活躍するのかな、と思いきやそうではなかったばかりか、出演陣のトンでも演技に口をアングリさせることもたびたびであった。
平成期から、渥美清をメインで話を作ることができなくなっていることを逆手にとって満男(吉岡秀隆)が主体でストーリーが紡がれていることは、Wikiなどでの後追いで知ることになった。だったら「ああ、納得だわ」と言いたいところなのだが、彼が主人公になるストーリーは、正直言って「寅さん」ではないのだ。ましてや、満男が恋に戸惑うのならまだしも、今や家庭持ち(妻とは死別)の満男に、寅さんの助言や至言は重みを持たない。結婚していない満男に、これまた恋愛遍歴なら右に出るもののいない寅さんだから釣り合うのだ。
だから、結局、お互い家庭を持っている泉と満男が出会ったところで、どうなるものでもない。山田監督が不倫を堂々と描くはずもなく、せいぜい別れのキスが精いっぱい。それでも、演技で感情を持っていかれるのならわからないでもないが、キスシーンすらまともに撮れない(正確にはほぼ一回撮りOKになっているのがバレバレの、唇の重なっていないキスシーン)演技を見せられるとは思いもよらなかった。
序盤の小林稔侍のクソ下手な関西弁に大きく萎え、セリフが多いのに滑舌も怪しい後藤久美子の棒読み、これまた主役を何作もこの作品で撮っているはずなのに、オーラを一切感じない吉岡。渥美清のネームバリューと、彼独特の人生観がこの作品の主柱であることが、図らずも露呈した50作品目であった。
もちろん、一作目から追っかけている人も少なからずいるだろうし、この作品でも☆5個を普通に与えているファンもいる。だから、作品として個別で見た時にそれまでの積み上げてきた歴史に理解を示している人とそうではない人とで温度差が半端ないのだろうな、とは感じた。私は言わずもがなな、後者の部類だ。
得点は77点まで。老いて切れ味のなくなっているレギュラー陣に、うるさいだけの美保純。蛾次郎さんは存在感もほぼなく、夏木マリはおどろおどろしく変身。リリー役の浅丘ルリ子くらいがこの作品の良心といえなくもないが、結局、寅さんの幻影を追い求めていた人たちがもっともっと出てこないと、この作品はいけなかったように思う。
要は、マドンナたち勢ぞろい、的な作品の方がにぎやかだし、我々も楽しめたはずである。満男と泉に固執しすぎたあまり、彼らの思いのたけが完全にすれ違う……それも未婚で別れるのではなく、許されない恋になってしまってからの別れになることを強調する必要があったのか、というところである。
だからなのか、ラスト前で、今まで出てきたマドンナたちが銀幕の上に姿を現す。「これで勘弁してください」。監督のエクスキューズが聞こえてくるようだ。せっかくの「お帰り」が全然生きていない。50作目なのに晴れやかしいところが感じられないのは残念を通り越して悔しい限りだ。
渥美清演じるフーテンの寅こと、車寅次郎。彼が「とらや」に帰ってきて、マドンナとの出会いと別れがあり、また「とらや」から旅立っていくというこのルーティーンが延々と繰り返された50作近く。ゲストであるマドンナ役との恋模様に国民は一喜一憂していたのだった。
寅さん映画は、年末年始にしかやっていないと思っていたら、実はお盆と正月の2回撮り、しかも黎明期にはなんと一年に4作品も公開していたというんだから驚く。渥美清の体調が思わしくなくなり始める平成期に入ってから、年末映画が定着することになる(1989.12公開の42作目から)のだが、正直シリーズものには関心の薄い当方がこれを見たい、と思うほどには触手を動かされなかったのも偽らざるところである。
2019年でシリーズ50周年。50作品目のメモリアルをどう料理するのか……山田洋次監督との初対峙を終えた当方だが、もっともっと寅さんが活躍するのかな、と思いきやそうではなかったばかりか、出演陣のトンでも演技に口をアングリさせることもたびたびであった。
平成期から、渥美清をメインで話を作ることができなくなっていることを逆手にとって満男(吉岡秀隆)が主体でストーリーが紡がれていることは、Wikiなどでの後追いで知ることになった。だったら「ああ、納得だわ」と言いたいところなのだが、彼が主人公になるストーリーは、正直言って「寅さん」ではないのだ。ましてや、満男が恋に戸惑うのならまだしも、今や家庭持ち(妻とは死別)の満男に、寅さんの助言や至言は重みを持たない。結婚していない満男に、これまた恋愛遍歴なら右に出るもののいない寅さんだから釣り合うのだ。
だから、結局、お互い家庭を持っている泉と満男が出会ったところで、どうなるものでもない。山田監督が不倫を堂々と描くはずもなく、せいぜい別れのキスが精いっぱい。それでも、演技で感情を持っていかれるのならわからないでもないが、キスシーンすらまともに撮れない(正確にはほぼ一回撮りOKになっているのがバレバレの、唇の重なっていないキスシーン)演技を見せられるとは思いもよらなかった。
序盤の小林稔侍のクソ下手な関西弁に大きく萎え、セリフが多いのに滑舌も怪しい後藤久美子の棒読み、これまた主役を何作もこの作品で撮っているはずなのに、オーラを一切感じない吉岡。渥美清のネームバリューと、彼独特の人生観がこの作品の主柱であることが、図らずも露呈した50作品目であった。
もちろん、一作目から追っかけている人も少なからずいるだろうし、この作品でも☆5個を普通に与えているファンもいる。だから、作品として個別で見た時にそれまでの積み上げてきた歴史に理解を示している人とそうではない人とで温度差が半端ないのだろうな、とは感じた。私は言わずもがなな、後者の部類だ。
得点は77点まで。老いて切れ味のなくなっているレギュラー陣に、うるさいだけの美保純。蛾次郎さんは存在感もほぼなく、夏木マリはおどろおどろしく変身。リリー役の浅丘ルリ子くらいがこの作品の良心といえなくもないが、結局、寅さんの幻影を追い求めていた人たちがもっともっと出てこないと、この作品はいけなかったように思う。
要は、マドンナたち勢ぞろい、的な作品の方がにぎやかだし、我々も楽しめたはずである。満男と泉に固執しすぎたあまり、彼らの思いのたけが完全にすれ違う……それも未婚で別れるのではなく、許されない恋になってしまってからの別れになることを強調する必要があったのか、というところである。
だからなのか、ラスト前で、今まで出てきたマドンナたちが銀幕の上に姿を現す。「これで勘弁してください」。監督のエクスキューズが聞こえてくるようだ。せっかくの「お帰り」が全然生きていない。50作目なのに晴れやかしいところが感じられないのは残念を通り越して悔しい限りだ。