多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

「君の名は。」を深掘る(20・終) 三葉の生死を深掘る

いよいよ、深掘るのもこれで最後にしたい。
最後にふさわしい題材を探すのに苦労したが、本当にこれこそ、私のこの映画解析の集大成となる事柄を見つけた。
とは言うものの、なかなかに結論がでない/当然異論は噴出することは百も承知だ。
だが、どの時点に基軸を置くか、に集中すれば、限りなく正解に近づくのではないか、とおもっている。

それでは題材の発表だ。
お題:三葉は、本当に一度「死んだ」のか?

映画のオープニング。「あの日、星が降った日」の時の三葉は、浴衣姿であり、イコール死に直面する時間帯にいる。
もちろん、あのまま破片の落下になすすべなくあの衝撃波に蹂躙されているだろうことも察しがつく。新聞の記事、犠牲者名簿…。客観的事実は曲げようがない。
だが、結果として三葉をはじめ、町からは死者は出ず、2022年の春に再会(正確にはお互い会ったことも記憶にないのに、お互いを求めあっていた)する。

仮説:
当方は、彼女の死はなかったものと考えている。
ただ、瀧と会っていた(それも2016年版)ことと、お互い入れ替わったことの記憶はほぼなく、初恋の相手がたまたま東京にいた、というレベルの出逢いとみている。

さあ、大変だ。
オープニングの映像を否定するような仮説。いまから読み下そうとしている諸兄も、ドキドキしているのではないだろうか。

では、仮説を証明すべくいろいろな事項を紐解いてみよう。
・オープニングのセリフを解析する
瀧「あの日、星が降った日。それはまるで」
三葉「まるで、夢の景色のように ただひたすらに」
瀧・三葉「美しい眺めだった」

なんで「夢の景色のように」って彼女が言うのか…オープニング自体に意味がある、と提示しているのはおそらく当方以外にいないだろうと思っているのだが、それはそれ自体が夢。現実とは異なっているから、と考えるのはちょっと飛躍しすぎか?

・第一の2013.10.4 が、「夢の中の出来事」と見れないか?
ムフフ。私は、既にそうではないか、と考えている。→三葉の瞳に映る物体の差異に気が付けば、この結論を導出することは可能だ。  
トドメは「あんた今、夢を見とるな」
・歴史が確定した後半の描写が「正」とするなら、前半部分が「虚」となってしまう。
これは、彼女が生きている、少なくとも死んでいないという援護にもなる。すべてが間違っている可能性があるのならば、そもそも死に直面していないと考えるのが妥当。
・我々は「彼女の死」を目撃してはいない
確かに町民の1/3が死亡し、名簿にも載っている。だが、文字情報だけでしか提示されていない。さらに言うなら、割れている彗星を確認したのは落下の1時間ほど前。そのあと確かに画面は暗転し彼女に何かが起こったことを暗示はさせるが、それ以上の情報は提示されていない。
そして、その文字情報ですら「夢を見とるな」で囲まれた中の事象。

「そうは言っても…」
仮説に反証も挙げられよう。
・隕石落下は避けられず、第一の時間軸上では、回避のすべがないので死亡しているのは確実
映像上では、広場的な場所で彗星ショーに見入る3人組が描かれている。だが、彗星が割れて赤く光る隕石がこちらに向かってくることを三葉の瞳がものがたる。
当時のニュース映像からでも「隕石の軌道予測は不可能」とされており、当然糸守に降ってくることも想定できていなかったはずである。
つまり最初に図書館で見た資料そのものも「正」であり、歴史が改変した、町民全員生存が「新たな正」であるというのが大半の人の考えるところだろうと思う。
・「私、あの時…死んだの?」
口噛み酒トリップの記憶が三葉の中に取り入れられる。もちろん、それは、赤い破片ではなく、彗星本体が落ちてくるかのような事象として描かれているものだ。彼女はそれを見て、自分は死んだと思っている。
そして重要なのは「(2016/2013).10.22時点で三葉はこの世に存在していない」、しかも即死に近い状況で死に至っているので、当時の状況を記憶していないから、あのような表現になっているとも受け取れる。

だが、この物語の構成を思い出すと、当方の仮説はがぜん現実味を帯びてくる。
オープニングは…「朝、目が覚めると、なぜか泣いている」という大人三葉のセリフで幕を開ける。
そして我々はこのわずかな、「夢灯籠」が流れる前段階で、この作品が、第一の時間軸を否定していることに気が付く。
大人三葉はこういう。
「そういう気持ちに憑りつかれたのは、多分、あの日から」
"5次元"という表現があっているかどうかは別にして、まったく同い年の瀧と三葉が邂逅した2013年10月4日を彼女は思い出しているということである。もし仮に隕石落下を目の当たりにし、死んでいるはずの彼女が「そういう気持ち」=「ずっと何かを、誰かを探している」(瀧のセリフ)に憑りつかれるはずがない。瀧に会えていない時間軸は、彼女の記憶の中に存在していないと考えると、
・第一の時間軸上で描かれる2013年10月4日は、全て、何もかも、間違っている
・仮に映像の状況が現れたとするならば、それは「夢の中の出来事」で、現実ではない
と解釈することも「可能」である。

そもそも私は「歴史改変」「死者の生き返り」という観点でこのストーリーを見たくない。誰かのようにいくつもの時間軸が存在し、それを行き来しているように描くことはおそらく原作者の意図したものではないと感じているからである。
だから、2013年10月4日は「2016年10月22日の瀧」の入った三葉が町を救う、というのが「最も正しい」歴史であり、これ以外の正解は考えられない。三葉自身が彗星の直撃を受けないで、(けがはしていたとしても)生存できる時間軸こそが唯一の時間軸なのだ。

解析結果:
三葉が遭遇した『隕石落下』のシーンは、彼女を死に至らしめたものではなく、「事実」としての隕石落下の表現で留まっている。彼女が死んだこと/直撃を受けたことすべてが事実と異なる描写であり、それは夢の中の一コマ、とも解釈できる。
本来の2013年10月4日は、未来の瀧が入り、災害を回避する動きを三葉をはじめとする仲間が演じるのが正解であり、その過程で瀧と三葉がお互いの一致を見せるための別次元の2013.10.4で邂逅し、お互いをとりもどし、記憶を失いながらお互いの人生を歩んでいく、というストーリーにしてあるとみる。
よって、三葉は、死に直面していないし、死んでもいない。口噛み酒トリップ上の記憶は完全に間違っているし、浴衣姿で見た隕石も「夢の中の出来事」と解釈できる。







「君の名は。」を深掘る (19)難関・二人の入れ替わり劇をたどる

20タイトルでこの徹底解析記事も終わらせたいと思っている。
それにしても、よくもまあ、これほどいろいろとネタが出てくるものだと感心する。もちろん、いわゆる設定ミスな点(当方は真っ先にあまりに町長選挙期間が長いことに気が付いたりした/ほかにも彗星の軌道)はどうしようもないところとして放置せざるを得ないのだが、それにもまして、今回、敢えて今まで放置してきた、それこそこの物語の根幹に位置する部分を解析・論評していこうとしている。

それはズバリ、「入れ替わりがなぜ瀧と三葉の間でしか行われなかったのか」という根幹も根幹、これを論じるのか?!と言われそうな題材である。

だが、当方サイドとしても、これはこの作品を完全に把握し、彼らの行く末がどうなるのか、を考えた時にやっておいて損のない解析と考えたから始めようとしているのである。


仮説:
二人が入れ替われるようになったのは・組紐 ・瀧が「同い年になる」 ことが必須条件だったとみている。意外に同い年、は気にされにくいのだが、2014年でも2015年でもないとなると、又その先でもないとなると同い年というファクターを消しようがない

まずこの仮説を発展させていこう。まずは組紐である。
奇跡的に「2013年10月3日」に瀧の手元に渡った三葉の組紐。しかし、当方の解析により、この組紐を渡すシーンは、単に名前を伝達するためのものではなく、「思いを伝える重要なシーン」であると論じてある。それは、たとえ、3年前の、14歳の瀧であっても、「瀧は瀧である」「いずれは気がついてくれる」「思いを組紐に乗せられた」からこその受け渡しの瞬間として描かれている。
ところが、翌日、(一応)三葉は死に直面する。瀧は、その時、組紐をくれた彼女がこの災害に巻き込まれていたことなど知るはずもなく、まして岐阜の田舎町の出来事で数百人が犠牲になっていたとしても「東日本(大震災)に比べたらちょろいぜ」くらいにしか考えていなくてもおかしくない。「未来の瀧くん」に惚れた三葉が渡した組紐が、時を越え、入れ替わりを促すアイテムになったとするのは飛躍した結論ではないと思っている。

次は時期である。
2014年・2015年に何事も起こらなかったのは、年齢のこともさることながら、瀧の側に余裕がなかったから、とも考えられる。2014年は受験のシーズン、2015年は高校一年生になったばかり。もし年齢を考慮に入れていなかったとしたら有力候補は2015年以降、ということになる。
そして迎えた2016年の秋。高校二年生になった直後でもなく、夏休み期間中でもない2学期が始まった直後にお互いの精神が入れ替わる現象が起こり始める。それは「あの日」である10月4日のほぼ一か月前。トータルで10回入れ替わりが起こっているということである(三葉の最後の日記が2016.10.2であり、これが東京生活10であった) 。
瀧の誕生日がある種の「トリガー」にもなっていると推察しているのだが、「あの出来事の1か月前から」と考えることも不可能ではない。年齢の一致という点もさることながら、「どうして一か月前からなのか」に関しては、明確な答えを出せるほどには至っていない。
それについては、ちょっとした邪推・完全なる個人的感想になるのだが「それ以上入れ替わりが続いてしまったら、相手を好きになることなく、ただの「いやな奴」状態で終わっていた」可能性も少なからず存在する。腕だけで飽き足らず、顔に落書きまで始める二人。「(恋人は)いないんじゃなくて作んないの」とお互い悪態をつきつつも傍から見ている分には「おーおー、仲のよろしいことで」となるように見せているところは悪くない演出だ。ただ、それ以上お互いに干渉し続けていたら、どうなっていたか、はこの物語では窺い知れない。悪い方向に向かっていたとしてもおかしくない。それを食い止める意味合いの一か月/10回の入れ替わり、だったとするならば、何事においても、うまく回した監督の采配が生きているといわざるを得ない。

そして同い年での入れ替わり、という事象については、当方は物理的な観点からそうなったと断定することにする。年齢が食い違ったままの入れ替わりは、性徴的な部分で矛盾を発生させる。例えば胸のふくらみ、男性器/女性器の問題などなど。
これについては物語の中でも大きくは取り上げられず、入れ替わったお互いが困惑する様子だけをクローズアップするにとどめている。瀧は女体化した自分に驚き、男性に憑依した三葉は、「なんや、ある」と男性そのものに顔を赤らめる。その程度で終わらせることで我々には「お困りのご様子」程度の認識をさせつつ、入れ替わりがもたらす「偉業」をあのときまで知らせないという効果にもつながっている。


もちろん、「17歳の瀧しか知らず、会いに行ったら3歳年下だった」という現実は、まさしくパラレルワールドでもある。今でこそ理解して書いているが、初見/2回目くらいまでは疑問符が付きまくる状態が治まらなかった。そして、この疑問がクリアになった瞬間に、彼らの想いと、3年間の空白が一気に埋まっていくのである。
瀧は、組紐を渡しに来た(正確には三葉を知らない3年前の瀧に会いに来た)三葉の想いを受け取り、そうとは知らずに3年間持ち続けていた。そこに気が付き、三葉に入った状態でご神体に上りつつ号泣に近い感情を発露させる。好きとも嫌いともいわれていないはずの彼らが一つにムスビつこうとしている。だから、私も「自転車をこぎ出すあたりからやばい状況に追い込まれる」ことが何回かに一度あるのだ。

入れ替わりの相手は、通り魔よろしく誰でもよかったわけではない。歴史の必然が二人をムスビつけていたとしか考えられない。

解析結果<独自研究>
二人の入れ替わりが起こる決定的な証拠や事象は、当の本人たちも「原因は不明」としているように、映像を見ている我々にも明確な回答は出していない。しかし、もし「原因がある」とするなら、二人をムスビつけている組紐がそれであり、同い年になるまで効力を発揮しなかったとするのが妥当。

「君の名は。」を深掘る (16)彼らの恋愛観を探る

二桁鑑賞。一つの映画にこれほどまでのめり込んだことは、49年の人生の中で初めての経験である。普通の人なら「2回くらいは見ようか」は当たり前のようにあっても、ここまで入れ込む対象ができるとは、そしてそれに今この瞬間に立ち会えていることは、奇跡としか言いようがない。

今回は、禁断のテーマ、に足を踏み入れてみる。
彼ら二人の恋愛観についてである。
1.高校生時代
あまりのことにスルーしてしまっている人たちが多いわけだが、それは無理もない。「前前前世」が流れる中、最後の捨て台詞を二人が言い放ち、入れ替わりのドタバタ劇がいったん終了するからである。
だが、捨て台詞、だからと言って捨てっぱなしにしているようでは解析厨の名折れである。
その捨て台詞とは…

 「(彼氏/彼女は) いないんじゃなくて、作んないのっっ!!」

ああ、そう…で終わらせている人が大半だし、そこに突っ込みを入れている時間も間隙もない。ただ単に「異性に興味はございません」という意思表示、と受け取っていたからすんなり流せるし、「ああ、いまどきの子らしいわ」と共感している同世代の感想も聞こえてきそうである。
だが・・・
それで終わらせてしまっていいものなのだろうか?
恋多き年代・・・17歳といえば、そういう岐路に立たされている状況が見え隠れする。クラスメイトに彼/彼女と呼べる友人は、共学だった両名ともいないところに疑念が生じるのだ。

まだ三葉の方に彼氏と呼べる存在がいないのは察しが付く。彼女が神職…巫女だからだ。
さらに言えば、彼女が長女であり、宮水神社を背負って立つ家長になる。イコール、婿養子を迎え入れて宮水の血を絶やさないようにすることが三葉に課せられた使命である。彼氏になり、ゴールインすることは自分の姓を捨て宮水を名乗らないといけなくなる。それはかなりのハードルでもある。だから「作りたくても作れない」「敬遠される」のはわからないでもない(でも、瀧が入って自由奔放に生活したことでラブレターとかもらうようになっていったので、もててないというわけではなかったのだろう)。

ところが瀧の場合、いない理由が判然としない。三葉に言われて「いないんじゃなくて作んねぇの」と言っている暇があったら、その美貌を生かして、渋谷でも原宿でもナンパすればイチコロだろうし、それくらいやっていて当然ともいえる。
だが、そこまで積極的に動いてはいない。それは本当に「彼女なんて必要ない」と思っていたから、なのだろうか…
もしあの組紐をくれた女性に恋をしていた、とするとどうか…。と考えたが、ようやく三葉の記憶を取り入れることで「彼女だったんだ」と気が付いたわけであり、3年前のあの出来事で彼女に恋をした、そして初めての恋だから彼女は要らないということになるのは、飛躍しすぎである。
奥寺先輩の存在も考えてみた。だが、彼にとっては明らかに高根の花。抜け駆けはおろか、柱の影からそっと見守るくらいが関の山だっただろうし、それこそ三葉の大胆行動がなければデートなどという"暴挙"には打って出なかったはずである。

瀧が彼女を必要としなかった理由。それは「自分の両親」を見てしまっているからと考えると意外と腑に落ちる。
父一人子一人で何年過ごしているのかは知らない。だが、どういう経緯があれ、「別れている」ことに変わりはない。死別でも離別でも。「会うは別れの始まり」ということわざもあるが、お互い惹かれあっていても、別れがやってくると考えた時に「彼女なんか面倒くさいなぁ」という感情が出てきていてもおかしくない。ちなみにどうしてそう思えるのか?私の境遇とよく似ているからである。

三葉も瀧も実際"晩熟(おくて)"である。三葉も男性の体自体を知らなかったし、当然処女だろう。瀧はさすがにいろいろと情報を取っていただろうし、胸を触ることは母親から別れてだいぶたつ瀧にしても母性をくすぐられたからこその行動とも見て取れる。
高校生時代の彼らは、お互いがお互いを欲していないように描かれていたはずの序盤。だが…10月に入ってから、瀧サイドの描写に傾注することで、彼が突き動かされていく過程を見ていくことになる。立花瀧の孤軍奮闘が、我々の感情をも揺さぶり始めるのである。

2.再会に至るまで
物語のラストシーンでは、就職先も決まってようやくスーツも板についている瀧と、隕石落下からほぼ同時に上京したと思われる三葉の出勤シーンが描かれる。それは、まるで見てきたような場面・・・そう。オープニングである。我々は、まさに、このほぼ100分間の彼らを「この目に焼き付けた」からこそ、並走する電車の扉の前でたたずむ二人が突然のように再会するその一瞬を見て、感動もし、納得もするのである。

それを裏付けるかのように、三葉はこういっている(ただし、上京したときのセリフ)。
「でも、確かなことが、ひとつだけある。私たちは、会えばぜったい、すぐに分かる。私に入っていたのは、君なんだって。君に入っていたのは、私なんだって。」(p.188)

とはいうものの、二人の間には、決定的な時間の流れが存在する。三葉サイドなら8年、瀧にしても5年もの歳月が流れているのである。
たださえ忘れているそれまでの出来事。その間に出会っているであろう、魅力的な異性の数々。そのいずれもになびかず、媚びず、追いかけず…。そうまでして「ずっと誰かを探していた」というのだろうか…

彼・彼女の恋愛遍歴は正直分からない。少なくともお互いに異性の影がまとわりついていないことも画面上から窺い知れる。それはお互いがお互いを知る前から何ら変わっていない、そして、忘れているはずなのに誰かを探し求めているような感覚をずっとお互い持ち続けて大人になっていってしまったのだ。
この恋愛観を不幸と呼ぶべきかどうか…。「会えなかったときの絶望感」を全く彼らは感じなかったところがすごい。あのタイミングで出会えたことの方が、歴史を変えた事より「奇跡」と呼んでも差し支えないのではないか、とさえ思う。

解析結果(独自研究):
彼らにとって、入れ替わりの体験が"初恋"につながり、それはお互いにとってなくてはならない人レベルにまで昇華してしまった。それゆえ、二人ともほかの人に恋愛感情を抱かなかった恐れは多分にある。出会えてなかったら二人とも独身で「誰かを探したまま」で終わっていた可能性すらある。


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