ちょっと遅くなったが、実質数時間で読み切ってしまった。百田氏らしい筆致もあるのだが、実質的には、のちの夫婦となる、カップルのダイアローグが大半を占めており、実際の文字数としてはそれほど多くなかったのではないか、と推察する。少なくとも、「海賊と呼ばれた男」並の量はないことは間違いない。
私もいろいろと小説なり、読んできたつもりだが、この本ほど「泣く」という表現に満ち溢れているものはないといってもいいだろう。特に亡くなってからは、関係者が弔問に訪れるシーンがあるのだが、一行おきといってもいいくらいに「泣」の漢字が存在するのである。物語の途上でも、たかじんの生来の浮気癖に怒りに燃えて泣く、愛情を感じて泣く、病気の進行に対して号泣する…。ある一人の男・・・「やしきたかじん」の終末期を看取った立場からの回顧録/記録からのドキュメンタリーということになるのだが、読了しても「信じられない」という思いがいっぱいである。
ここからは、ちょっと長文になるがお付き合いいただきたい。
常識的に考えて、「犬好き」という接点だけで、ここまでの出会いというものが存在するのだろうか、そして、出会ってすぐどころか、出会う前から、たかじん氏はこの女性にシンパシーを感じていたきらいがある。一般人同士でもなかなかそんなうまい話は転がっていないのに、芸能人・若ぶって見せても所詮は60台の老人と、いい感じの女性になりつつある30台とがここまでの仲になりえるものなのだろうか…。
それを思うと、口さがない週刊誌の「遺産目当て」と書かれてしまうのは、一般的な見解そのものであり、むしろ、取材しないで書こうとするなら(取材しないで憶測で書いてしまう)、この結論が導き出されて当然である。
ところが、この女性がたかじんからは金銭的なものを一切受け取っていないことが明らかにされている。資産としての不動産は相続の対象になっているようだが、預貯金等は寄付に回っている。生前に一種の支度金としての300万円についても手を付けたという記述はない。金にはむしろ執着していなかった面がクローズアップされている。
そして、彼女が「この人についていく」と決定づけたのが、出会ってから2か月足らずのことである(イタリアへ帰らないことを決然と決めた/この行為に私は戦慄した。詳しくは本の中で)。もちろん、そこには彼が末期の食道がんであることを知ったから、ということもあるのかもしれない。しかし、なぜ彼女はそんな、貧乏くじといってもいい立ち位置を受け入れたのだろうか…事ここに至って、そこまでの心情の変化まで深く掘り下げて書いてほしかったところだが、ややあいまいな記述で止まってしまっている。
ここからは時系列を追っての闘病生活が赤裸々に記されているのだが、ここまで詳細に文にできるのは、奥さんが詳細なメモを残していたからに他ならない。そして、それが可能だったのは、たかじんの資金力があればこその芸当であるといえる。24時間付き添いの、看護婦も真っ青の献身的な看病。病院関係者のだれもが「素晴らしい」と口をそろえているというのも驚きである。ここまで自己犠牲を発揮できる、しかも打算的でない・・・もし彼女がどこぞの国の国籍の人だったら、ここまでのことができようはずもない。
私もさすがに感情を抑えきれなくなる場面に幾度か遭遇してしまい、正直ヤバかった。とくに百田氏がたかじんから高く評価され、ほとんど交遊もなかったにもかかわらず、「友情をつなぐ」というメモが紹介されるシーンである(冒頭のプロローグの部分/金スマなどでも、再現フィルム上で明らかにもされていた)。百田氏の性格も何も、すべて画面から吸収し、この男とならいい仕事ができる、と評価される。物書きとして、ここまでのことを書かれて男気に感じないはずがなかろう。
最後に残したたかじんのメッセージも胸を打つ(エピローグ内)。女遊びと放蕩に明け暮れていた新地の帝王の前に現れた、愛の天使。しかし、それを知るのには遅すぎた。死の直前にそれに気が付き、人生の無常を悟る。太く短くが身上だったはずなのに、こんなことになるなんて・・・。彼ほどの名声に財産を築いた人間であっても、本当の「愛」は手に入っていなかったのだ、と知らされるわけであり、我々にも愛とは何かを問いただす一文でもある。
一部のバッシング報道に対しては、当方は一応「擁護派」として名を連ねたいと思っている。感情の起伏の激しかった現役/壮年期に色々と人間関係でこじらせた人たちがバッシングに回っている模様であり、物語の中でも、マネージャーもどきの役割の人やら、前妻の娘やらも出てくる。仮に未亡人の言うことが嘘であり、真実でないというのなら、手記でも何でも出せばいいだけのことであり、それをしないでワアワアいうのは単に貶めているだけではないか、と思わざるを得ない。もちろん、それをする=金になる わけで、お互い様ではないのか、といいたくもなる。
肉親の看病ということはしたことがない当方。2年前のGWに母親が急性心筋梗塞で倒れた時も、それほど献身的に何かしてやれたという記憶はない。親子ですらこんな状態なのに、血を分けてもいない、赤の他人がここまでのことができるようになる・・・。愛というものは一種恐ろしい「魔法」のような気がしている。
まず第一弾はここまで。次は、いろいろあることないことかかれていることに対する当方の反論を書いていきたい。
私もいろいろと小説なり、読んできたつもりだが、この本ほど「泣く」という表現に満ち溢れているものはないといってもいいだろう。特に亡くなってからは、関係者が弔問に訪れるシーンがあるのだが、一行おきといってもいいくらいに「泣」の漢字が存在するのである。物語の途上でも、たかじんの生来の浮気癖に怒りに燃えて泣く、愛情を感じて泣く、病気の進行に対して号泣する…。ある一人の男・・・「やしきたかじん」の終末期を看取った立場からの回顧録/記録からのドキュメンタリーということになるのだが、読了しても「信じられない」という思いがいっぱいである。
ここからは、ちょっと長文になるがお付き合いいただきたい。
常識的に考えて、「犬好き」という接点だけで、ここまでの出会いというものが存在するのだろうか、そして、出会ってすぐどころか、出会う前から、たかじん氏はこの女性にシンパシーを感じていたきらいがある。一般人同士でもなかなかそんなうまい話は転がっていないのに、芸能人・若ぶって見せても所詮は60台の老人と、いい感じの女性になりつつある30台とがここまでの仲になりえるものなのだろうか…。
それを思うと、口さがない週刊誌の「遺産目当て」と書かれてしまうのは、一般的な見解そのものであり、むしろ、取材しないで書こうとするなら(取材しないで憶測で書いてしまう)、この結論が導き出されて当然である。
ところが、この女性がたかじんからは金銭的なものを一切受け取っていないことが明らかにされている。資産としての不動産は相続の対象になっているようだが、預貯金等は寄付に回っている。生前に一種の支度金としての300万円についても手を付けたという記述はない。金にはむしろ執着していなかった面がクローズアップされている。
そして、彼女が「この人についていく」と決定づけたのが、出会ってから2か月足らずのことである(イタリアへ帰らないことを決然と決めた/この行為に私は戦慄した。詳しくは本の中で)。もちろん、そこには彼が末期の食道がんであることを知ったから、ということもあるのかもしれない。しかし、なぜ彼女はそんな、貧乏くじといってもいい立ち位置を受け入れたのだろうか…事ここに至って、そこまでの心情の変化まで深く掘り下げて書いてほしかったところだが、ややあいまいな記述で止まってしまっている。
ここからは時系列を追っての闘病生活が赤裸々に記されているのだが、ここまで詳細に文にできるのは、奥さんが詳細なメモを残していたからに他ならない。そして、それが可能だったのは、たかじんの資金力があればこその芸当であるといえる。24時間付き添いの、看護婦も真っ青の献身的な看病。病院関係者のだれもが「素晴らしい」と口をそろえているというのも驚きである。ここまで自己犠牲を発揮できる、しかも打算的でない・・・もし彼女がどこぞの国の国籍の人だったら、ここまでのことができようはずもない。
私もさすがに感情を抑えきれなくなる場面に幾度か遭遇してしまい、正直ヤバかった。とくに百田氏がたかじんから高く評価され、ほとんど交遊もなかったにもかかわらず、「友情をつなぐ」というメモが紹介されるシーンである(冒頭のプロローグの部分/金スマなどでも、再現フィルム上で明らかにもされていた)。百田氏の性格も何も、すべて画面から吸収し、この男とならいい仕事ができる、と評価される。物書きとして、ここまでのことを書かれて男気に感じないはずがなかろう。
最後に残したたかじんのメッセージも胸を打つ(エピローグ内)。女遊びと放蕩に明け暮れていた新地の帝王の前に現れた、愛の天使。しかし、それを知るのには遅すぎた。死の直前にそれに気が付き、人生の無常を悟る。太く短くが身上だったはずなのに、こんなことになるなんて・・・。彼ほどの名声に財産を築いた人間であっても、本当の「愛」は手に入っていなかったのだ、と知らされるわけであり、我々にも愛とは何かを問いただす一文でもある。
一部のバッシング報道に対しては、当方は一応「擁護派」として名を連ねたいと思っている。感情の起伏の激しかった現役/壮年期に色々と人間関係でこじらせた人たちがバッシングに回っている模様であり、物語の中でも、マネージャーもどきの役割の人やら、前妻の娘やらも出てくる。仮に未亡人の言うことが嘘であり、真実でないというのなら、手記でも何でも出せばいいだけのことであり、それをしないでワアワアいうのは単に貶めているだけではないか、と思わざるを得ない。もちろん、それをする=金になる わけで、お互い様ではないのか、といいたくもなる。
肉親の看病ということはしたことがない当方。2年前のGWに母親が急性心筋梗塞で倒れた時も、それほど献身的に何かしてやれたという記憶はない。親子ですらこんな状態なのに、血を分けてもいない、赤の他人がここまでのことができるようになる・・・。愛というものは一種恐ろしい「魔法」のような気がしている。
まず第一弾はここまで。次は、いろいろあることないことかかれていることに対する当方の反論を書いていきたい。