多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

純と愛

「純と愛」と「あまちゃん」 比較検討倶楽部(終) 最終回を比較する

皆さんが抱く「最終回」のイメージはどういうものだろうか。
子供のころ、好きだったアニメーションが最終回を迎えるとき、それこそ正座して、一時も目を離さず、焼き付けるかのようにしてみていた記憶がありありと目に浮かぶ。
だから、最終回がとんでもない演出や「これでおしまいってか?」と目をこすってしまうようなふざけたものだったりした場合に、今までの応援が無に帰すようにさえ思われ、がっかりしてしまうことも度々あった。その背景には「打ち切り」という突然死、つまり物語を正常に終わらせないことによる無理やり感と、整合性が取れないことから来る矛盾がそうさせているのだと思う。

とどのつまり、「終わりよければすべてよし」なのである。『あまちゃん』の最終回を見終えて、そして、今この記事を書こうとして「純と愛」の最終回を見比べて、最終回の持つ意味がどれだけ重要なのかを感じずにはいられない。

何しろ、東北の復興は道半ばどころか、端緒にたったといえるかどうかというレベル。その中で、お祝いムードしか感じられないオープニング。周りの人たちも笑顔、えがお、笑顔。海女の浜でも、ウニは豊漁。そして、架空アイドル「潮騒のメモリーズ」の復活で、最終回は最高潮を迎える。鉄道が復活したことを自分のことのように喜ぶ地元の人。元気を、勇気を与えることの出来る列車の底力をまざまざと感じてしまったシーンでもある。
ラストシーンは、ユイとアキが、長いトンネルを抜けたところでエンド。「長いトンネル」が復興にいたる長い道のりであり、出口が新しい東北をイメージしている、分かりやすいメッセージ。そこで終わらせるあたりがすばらしい。

この良作を見終えてから、『純と愛』のラストを見るのは苦痛以外の何者でもない。ぼろぼろになったままのホテルではなく、なぜか断崖絶壁での復活宣言。心情の吐露という意味では悪くはないとはいえ、最終回にすることか、とこの時点で一気にボルテージは下がっていく。何しろ、ホテルをそのままにしておくはずがない、復活に向けた最後の一押しが必ずあるはずだ・・・引っ張るだけ引っ張って、何もなかったのだから、がっかりしたのは当然だ。
そうなると最後のよりどころは、意識の戻らない愛の処遇である。キスはする。「ねむり姫」とは逆のパターンだったからか、チョッと最後に反応が激しかった程度で、意識が戻った描写はなく、そこでエンドマーク。。。。。。

期待させるメッセージを内包し、東北はがんばっている/まげねぇ!という意思表示が分かる最終回と、なんか、悲劇のヒロインを演じてしまっているだけの最終回・・・。
前回の比較検討では、「逆オマージュ」などという言葉を使ったが、この「純と愛」の最終話を意識しているつくりであることは、本人が否定しようと明らかである。全体的な明るさや、もはや主役である天野アキはほぼ埋没。祝賀ムード一色の中で小ネタがちらほらまかれる程度。一種「ミュージカル」的な演出も最後を飾るにふさわしい。こんなにぎやかで、それでいて、感動も出来る最終回が今まであっただろうか、とまで言ってしまう最終話だった。

「あまロスシンドローム」なる現象まで生み出したあまちゃん。このドラマが日本全体に与えた影響は計り知れない。実際、東北に脚を運んでいる人は半端なく、関連商品やCDも異例といえるヒットを飛ばしている。とはいえ、ヒットしすぎて、主役の能年玲奈嬢の今後・・・天野アキから抜け出せない・・・がちょっぴり心配な小生ではある。

「純と愛」と「あまちゃん」比較検討倶楽部(4) 最終週の考え方

なんでも「あまちゃんロストシンドローム」なる現象がここ最近取りざたされている。
スポーツ報知の記事にもある<リンクはbiglobeより>

今までの朝の連続テレビ小説において、「終わってしまわないで〜〜〜」と視聴者が懇願する作品は、私の知る限り存在しない。逆に「こんなクソぬるい原作ならとっとと打ち切ってしまえ」という声のほうを聞いたことがあるくらいである。

そのあまちゃんも残すところ後3回。水曜日の放送では、とんでもない音痴扱いされていた鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)が『何十回に一度の』思いもよらない歌声を披露し、さらに、死をイメージする楽曲を上手くアレンジすることまで成し遂げる奇跡を披露。当方も思わずうなった(実際のところ、「本当は歌えていたのではないか」疑惑も浮上したが<木曜放送分にて暴露>、真相は闇の中である)。

最終週に華やかなイベントで盛り上げつつ、大団円を迎えようとしているあまちゃん。しかし、ご承知の通り、前作「純と愛」では、本当にどんよりとした雰囲気しか漂っていない最終週であった。

開業直前のホテルは台風の直撃を受け、見るも無残な状態に。それでも開業祝に、と元ホテルの社長や大阪の安宿の関係者などが激励に訪れる。しかし、そういった心のこもったお祝いにも素直に応じられない純。勿論愛は寝たきり/意識不明のまま。周りでは結婚話や復縁などが取りざたされるが、純の中に祝福という感情は一向にわいてこない。それでも、認知症を患っている母親の一言でスイッチが入り、再起を誓って・・・終了、なのである。

「梅ちゃん」からこっち、朝ドラにははまってしまったほうだがこの2作品は、どちらもドラマだと思っている。そして正直、「純と愛」はよりドラマ的であるがゆえに、もう少しいい終わり方があってもよかったのではないか、とさえ思っていた(愛の意識レベルがもうちょっと上がってくれただけでも次に繋がっただろうし、もっと言えば最終回でそれを提示しなくてもよかったように思う)。
ところがあまちゃんでは、今までの伏線や歴史をことごとく回収している。忠兵衛の登場と退場にも理由があるし、大吉と安部の復縁も、又、春子と正宗も元の鞘に収まり(この事象は最終週ではないが)、なんといっても、ユイが「潮騒のメモリーズ」として活動を再開するなど、プラスのことしか提示されていない。

実は、宮藤官九郎氏があえて「純と愛」を逆オマージュしたのではないか、とかんぐってしまうのである。純と愛では台風による破壊で立ち直れなくなったものの、復活を心に誓ったところでエンドマークを迎えたわけだが「それは皆さんの心の中でネ♪」と視聴者に預けてしまう手法をとった。ところがあまちゃんでは、津波に襲われ、復活など程遠い「海女cafe」を、地元の力で復活させ、大女優の来訪というバックアップこそあれ、人まで呼んでしまう。しかも大盛況。真逆という言葉がこれほどぴったりはまる最終週比較もないものである。

こんなに楽しい、わくわくする展開が、最終週にもある。そりゃ、見続けている人が「あまロス」になるのは致し方ないって感じでしょうか・・・。

「純と愛」と「あまちゃん」比較検討倶楽部(1) 設定の妙…ドラマだったのはどっち?

所詮ドラマは時系列というものを無視しがちである。
「199X年、世界は、核の炎につつまれた!」とは、かの有名なバイオレンス漫画のでだしであるが、ご承知の通り、199X年に核戦争が起こった事実はない。この時点で、この漫画の書かれている世界が虚構であることを指し示している(最も、1980年代の原作であり、1990年代にもしかすると核戦争が起こっていたかもしれない)。だが、核戦争はこの物語においては、ツマ程度であり、無法化したことのほうがより重要である。つまり、無法化したことの前提として、人類を絶滅の淵に追いやった核戦争を引き合いに出さないと、「力こそが正義」となってしまった世界観を上手く説明できないのである。

かように、設定というものは、作品をいい具合にも、悪い方向にも向かわしめる、重要なファクターである。
ところが、リアルに事態を追いかける、ドキュメンタリー風な味付けのドラマは、ともすればことの大きさに飲まれる危険性をはらんでいる。大災害が絡んでいるとすればなおさらである。
この、あえて「禁じ手」といってもいい、ちょっと前の過去を穿り出すような設定にした今回の「あまちゃん」は、舞台を東北・岩手にしたこともさることながら、避けて通れない「3・11」を経過することで物語を最後に盛り上げていくというとんでもない手法を取っている。

他方、「純と愛」では、舞台の設定は、大阪の一流ホテル/大阪の木賃宿/石垣のホテルと、どこでも似たり寄ったり。宿泊施設つながりにしてしまったことで、そんなに上手いこと繋がるんかいな、と邪推してしまう、「ドラマ」としか見られない設定にしている。
もちろん時期は「今」。今を投影しながら、物語を進めていくわけだが、ぽんと石垣のホテルを提供するパトロンの存在など、無理というより、そこまで自己犠牲を払える人が日本にいるというところが少々怪しい。

「純と愛」にとっての過去は、愛(いとし/男)の母親や純の父親の一種、暴力的な、あるいは精神的な抑圧というものを感じずにはいられない、悶々としたものを引きずっている。ところが「あまちゃん」にでてくる、主役級の人間に暗い影を持った人間はごく僅かである(ユイが、震災後被害の有様を見てトラウマになった瞬間があるが、これとて物語の中では一瞬)。勿論、プロデューサーとアキの母親・春子との関係や過去の芸能状況をフラッシュバックさせるところはあるが、それは「現実」の世界で起こっていたこと。つまりつらい過去の投影ではないのである。

極め付けが登場人物の生死。「純と愛」では、純の父親を死なせ、母親は認知症。しかももう一人の主役である愛を意識不明にするという、ここまでやるか、というくらいのブラックな設定にした。ところが、「あまちゃん」では、あの未曾有の災害が起こり、確かに登場人物の周囲では何人か死んでいる、という報告はあるものの、それが具体化した形で発表されたことはない。それどころか、登場人物が誰一人死んでいないのである。飲んだくれの夏の夫・忠兵衛ですら、最終盤に生きて帰ってくるくらいである。

ドラマとしては、どちらが現実に即したものであるか・・・。今こうやって設定をいちいち文にしたためていると、本当のドラマ的設定は、「純と愛」であるな、と感じる。
ここまで読んで「じぇじぇじぇ」と声に出したあなたwwwよくわたしの文を読んでいらっしゃる。

でもヒットしなかった・・・。そこが今回の比較検討倶楽部の真骨頂なのだ。
視聴者が求めるものを提供する、これがマスコミ人士に科せられた使命である。「純と愛」は、たしかにドラマの体裁をなしていたし、基本に忠実。どろどろとした人間関係や立ちすぎているキャラ全開の登場人物と、困難しか立ちはだからない主人公の頑張りを見せることが「正義」だと確信していたからこそ、最後の心情の吐露があり、最後まで出来上がらなくても、それが人生そのものなんだよ、と言いたげな最終回に出来たのだと思う。

ところが「あまちゃん」ははっきりいってすべてがハチャメチャ。田舎ものの芸能界デビューはもとより、プロデューサーへの反骨心から会社を立ち上げる春子、挙句の果てに、関わった登場人物が続々と北三陸に帰っていく・・・。正直言って自分勝手に動いているとしか見て取れない構図である。でも、ヒットしているのだ。

1回目のまとめに入りたい。
くどいようだが、ドラマとして全体を俯瞰したときに体裁をなしているのは確実に「純と愛」である。だがヒットしなかったのは、その根底にある、「暗さ」「ブラック加減」にあると思っている。朝のはよから、こんな、いじめ抜かれる主人公を見て「今日も一日がんばるぞ」といえるのはよほどのMな人しかいないはずだ。
だが、「あまちゃん」は違う。人生これ楽観主義の塊のアキの笑顔と前向きな思想が、周りのドタバタをかもし出し、それがドラマではなく、コントのようなつくりになってしまっている。しかも、瑣末な情報や、現役の芸人の名前(挙句の果てにサカナクションまでさりげなくインサートするこのばかっぷりがイイのだ)まで繰り出して視聴者に笑いを提供する。じっくり見た人には「お得感」が獲られ、さらっと見た人にしても何の戸惑いもなく引っかかることもなく流れていく。そう。コントがドラマ化したような作品が「あまちゃん」なのである。

人生の悲哀をドラマにした「純と愛」。他方「なるようになるさ」で貫き通した「あまちゃん」。今の日本にとって、どっちが望まれていたのか、この一行ですべてが言い表せていると思う。
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