多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

謝罪

「自業自得」を実証する自虐作家のしたかったこと

ツイッターなどのSNSに投稿する人の大半は、ネットリテラシーをお持ちであり、問題視されるような発言や画像の投稿は普通ならしないものである。
ところが、店舗冷蔵庫に寝そべる/メニュー外の創作丼/恫喝動画の投稿など、本当であれば「公開してどうなるの」というようなものが次々にアップされてしまい、炎上→会社謝罪→身元確認→投稿主アボーン、という行動パターンをしてしまう層も一定数いる。巷では「バカッター」というらしい。

自己顕示欲が強いとか、公開することがステータスに感じているような向きがバカッター民には備わっているからこその結末なのかな、と思っていたのだが、今回の「放射脳作家」の、福島県産作物に関する暴言は、相手が曲りなりでも「作家」という、まともな職業の人物からの発言ということもあり、物議を醸している。

ところが、さすがにTOKIOファンが猛烈にたたいたのか、いや、まるで日本中を敵に回したかのような発言だったことも影響したのか、ツイッターは炎上状態。たまらず謝罪した模様なのだが、反省している文面には見て取れず、まるで入店直後に頼むビールよろしく「とりあえず謝っとけ」という風にしか感じ取れないのである。→別の言葉でいいかえると「はいはいすいませんでしたwwwwwwww」人殺しと言い切ってしまったことは消えないし、そういう浅薄な、表面的なところからしか物事を見られないということは、その人の作家としての立ち位置にも影響することにまでどうして考えが及ばなかったのだろうか…あ、放射脳だから仕方ないのか…

そう。謝るくらいなら、最初っから発言しなければいいのである。ちょっと投稿を発信する前に一呼吸でも置いて、「人殺しって文言がまずいかなぁ」などと推敲もせず、感情に任せてつぶやいてしまう。物書きとしては、あり得ないほど軽率で、文学的な薫りも、理路整然とした説得させるような響きも何も感じない。いかに彼がノーベル文学賞の候補になるほどの大作家であっても、こんなことをつぶやくようでは、「書いた本もレベルが低いんだろうな」と想起させてしまうところが痛々しい。

当然の成り行きとして、自身の著書にも悪い評価や論破する書き込みがなされる結果に。デマどころか、何の根拠もないこのツイートは、福島県に対する侮辱…ヘイトスピーチ以外の何物でもない。
我々は笑いや批判に飢えているわけではない。あえて、自虐ネタを提供してもらわなくても日々それより面白いことは転がっているし、胸糞なネタは本当は御免蒙りたい。しかし…阪神淡路の被災者でもある当方にとって、福島に対する侮辱は到底許されるものではない。
本当に何がしたかったのか…理解に苦しむツイートだったことは間違いない。

もはや「公器」などとぬかすんじゃねーぞ!!

goo辞書で「公器」を引いてみると、例文が示されている。

           おおやけのもの。公共のための機関。「新聞は社会の―である」
→gooの「公器」の意味のUrlはこちら

この例文に従うと、新聞は、「おおやけのもの」で「公共のための機関」でもあるということらしい。

しかし、そろそろ、この例文は取り下げたほうがよくなってきていると感じている(ちなみに、当方、この例文はふさわしくない、とgooに申し入れます)。
つまり、公共の機関であるという認識を持たなくなった新聞が存在しているからである。

もういわずと知れたことだが、朝●新聞である。自分のところのねつ造記事を訂正はしても謝罪をしないという姿勢に、ややおかんむりの週刊誌2誌が渾身の特集を掲載。いざ朝日に広告を出稿したところ、断られただけでなく、「謝罪と訂正を求める」と逆ギレしてきたというのである。
→「保守速報」のまとめ記事より。

もうね。「どの口がァ…」といいたくなるこの対応にもはや「この新聞にだけは公器という言葉は使えないわ」と思ってしまったものである。
実際、これで言いたいことはすべてである。この新聞のお説教じみた上から目線の発言も、したり顔の政府批判も、中韓に阿る内容も、何もかもが信用ならない。たとえ同じ内容を報じていても、「吉田調書」のように真逆に伝えることしかできない新聞は、存在価値がない。

百田氏ではないが、「消えてなくなってもらいたい」ところである。今回の対応ばかりは、さすがに腹に据えかねている。

疑問しか浮かばない「告白」…朝日の誤報問題を俯瞰する

今日・8月6日は今年で69回目となる原爆忌の日でもある。世界で初めて原子爆弾の”実験場”にされた広島の人たちの無念さを思うとき、鬼畜米英、とまで言わなくても、戦争というものはこういう無意味な、そしてむごいことでも平気で出来てしまう精神構造にさせられるのだと感じずにはいられない。

その一日前に恐らく、天地がひっくり返ってしまうような告白をあの大新聞社が紙面で暴露、蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。
内容は、みなさんご存知の「従軍慰安婦がらみ」のもの。一人の証人の著作物をノンフィクションと断定し、裏どりも行わないまま、強制連行という文字が独り歩きし、それが積もり積もって「20万人もの慰安婦が強制連行」という、伝言ゲームもびっくりの変遷を経てしまったわけだが、その入り口にあたる資料がフィクションであり、でたらめであったことをこの期に及んで訂正したというのである。

もうすでに皆さんの方が情報を得ているので詳しくは書かない。
しかし、私が問いたいのは「なぜこのタイミングなのか」ということである。吉田清治というただのフィクション作家の言をまともに受け入れ、それがあたかも史実であったかのように書き綴ってきた新聞社。もちろん、これを真に受けている人たちだっていたことだろう。しかし、「間違ってました」ということを最初から…少なくとも、いろいろな検証書籍が出始めた20年ほど前から、この内容がでたらめであることに気が付いていたと考える方が妥当である。
要するに「謝罪するには遅きに失している」し、せっかく30年以上も嘘をつき通してきたのだから、廃刊するまでウソを守り続けていればよかったものを、どうして今年に「間違ってました、テヘペロ」なのかがわからないのである。

「過ちては即ち改むるに憚ること勿れ」は、論語にも記されている名文である。それができずに、今まで偉そうに政府批判をしてきた左傾新聞社の、思いもよらぬ”白旗”に、これには絶対裏が、罠がある、と思わずにはいられない。
livedoor 天気
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

QRコード
QRコード
Amazonライブリンク
  • ライブドアブログ