とあるコラムニストさんのブログが物議をかもしている。
いまだに擁護派・憤慨派に分かれた論調は続いているし、とうとう本人も「中傷はやめて。そろそろ幕引きにして」とSOSを発信するまでになってしまっている。
端緒となったブログそのものは、本人のページからは削除された模様だ。
→それでも、その記事をもとにした論調はちょっと探せば出てくる。J-CASTニュースから
当方は、まずもって、同じ立場に立ち入れないうえに、本人でもないし、いろいろ彼女の心情を慮ることも難しいとみている。その上で、この書き方をしたことの根底にあるものは何か、を探ろうと思ったのだ。
まずタイトルからして振るっている。
「JRで車いすは乗車拒否されました」。
ほほうっ!天下のJRが、障がい者にそんな対応をしやがったのか!と、タイトルだけしか読まない人なら思っても不思議はない。ところが読んでいくうちに小田原駅での丁丁発止、乗換駅の熱海駅の駅員の尽力が伝わってくる。そう。彼女はちっとも「乗車拒否」(拒否という言葉をどうしても使うとするなら、「介助拒否」「来宮までお供できない」である。そして「出来ない」ことを理由に拒否もできる)されていないし、目的地には到着しているし、なんだったら、帰りには到着駅に駅員はスタンバイしていたこともわかっている。
コラムニストさんだから、タイトル命、読んでもらうには煽情的に書いたことは理解している。しかし、書いたことと結果とは大きなずれがある。0か100かくらいの大きなものだ。書いていくうちに気が付いていたかもしれないが、「乗れているのに乗車拒否はおかしいな」と思っている感じもない。
当方の私感ではあるが、タイトルをそのままにしたのは、「初期対応のまずさ」が彼女の心を大きく傷つけている、「目的は達成されても心情的には拒否する気満々」だったと(本人が)感じたからタイトルとして残したのではないか、と思うのだ。これなら一応のつじつまは合う。
そうなってくると、最終的には感情論にならざるを得なくなり、意見が真っ二つに分かれてしまうのだ。さらに傲岸不遜な物言いだったという小田原駅でのやりとりの模様がツイートされたり、過去のとんでもない事案も暴露されるなど(夢の国子供料金入場は過去の武勇伝で、時効になっているとはいえ)、これまでの"業"が自分にマイナスに作用してしまう。
彼女がこういう態度や行動に出なければならない「本当のところ」を知らないと、簡単に糾弾も批判もできない。それは、先天性の病気で歩行もままならない、マイナススタートの彼女の持つ心の闇がそうさせているとするしかない。
彼女のブログの筆致からは、自分をよく見せようという脚色は感じられない。「してもらって当たり前」「障がい者様のお通りじゃ」というストレートな物言いがひしひし伝わってくる。世を恨み、周りに当たり散らす。傍若無人な駅のベンチに靴ごと上がって寝転ぶ自分の子供たちの写真を嬉々として挙げる時点で、自分たちは特権的で何をやっても許される、障がいを理由になんでも拒否することは許さない、という明確な意思を感じ取るのだ。
彼女は当然障がい者を代表していない。だから「電動車いすに乗ってる奴みな自己中」と考えるのはおかしな話だ。しかし、彼女のせいで「面倒くさい人たち」「クレーマー」という意識を社会が持ってしまったことも事実である。無関係なほかの、善良で問題を起こそうなんて考えていない障碍者も同じ目で見られ、相互理解が進まず、さらに世間に対して憎悪の念を増幅させる。
分断の連鎖を断ち切るのは、いまだにJRの対応に疑義を唱える本人の意識改革しかないと思うのだ。「人は一人では生きていけずに誰かを求めてしまう」とは、当方が一時期お熱を上げていた某声優の歌う名曲の一節なのだが、支えられているという感覚が彼女にはないのかもしれない。心まで障がい者になってしまっている彼女は、何かと戦っているただただ痛い残念な人のままで人生を終わらせるつもりなのだろうか?
いまだに擁護派・憤慨派に分かれた論調は続いているし、とうとう本人も「中傷はやめて。そろそろ幕引きにして」とSOSを発信するまでになってしまっている。
端緒となったブログそのものは、本人のページからは削除された模様だ。
→それでも、その記事をもとにした論調はちょっと探せば出てくる。J-CASTニュースから
当方は、まずもって、同じ立場に立ち入れないうえに、本人でもないし、いろいろ彼女の心情を慮ることも難しいとみている。その上で、この書き方をしたことの根底にあるものは何か、を探ろうと思ったのだ。
まずタイトルからして振るっている。
「JRで車いすは乗車拒否されました」。
ほほうっ!天下のJRが、障がい者にそんな対応をしやがったのか!と、タイトルだけしか読まない人なら思っても不思議はない。ところが読んでいくうちに小田原駅での丁丁発止、乗換駅の熱海駅の駅員の尽力が伝わってくる。そう。彼女はちっとも「乗車拒否」(拒否という言葉をどうしても使うとするなら、「介助拒否」「来宮までお供できない」である。そして「出来ない」ことを理由に拒否もできる)されていないし、目的地には到着しているし、なんだったら、帰りには到着駅に駅員はスタンバイしていたこともわかっている。
コラムニストさんだから、タイトル命、読んでもらうには煽情的に書いたことは理解している。しかし、書いたことと結果とは大きなずれがある。0か100かくらいの大きなものだ。書いていくうちに気が付いていたかもしれないが、「乗れているのに乗車拒否はおかしいな」と思っている感じもない。
当方の私感ではあるが、タイトルをそのままにしたのは、「初期対応のまずさ」が彼女の心を大きく傷つけている、「目的は達成されても心情的には拒否する気満々」だったと(本人が)感じたからタイトルとして残したのではないか、と思うのだ。これなら一応のつじつまは合う。
そうなってくると、最終的には感情論にならざるを得なくなり、意見が真っ二つに分かれてしまうのだ。さらに傲岸不遜な物言いだったという小田原駅でのやりとりの模様がツイートされたり、過去のとんでもない事案も暴露されるなど(夢の国子供料金入場は過去の武勇伝で、時効になっているとはいえ)、これまでの"業"が自分にマイナスに作用してしまう。
彼女がこういう態度や行動に出なければならない「本当のところ」を知らないと、簡単に糾弾も批判もできない。それは、先天性の病気で歩行もままならない、マイナススタートの彼女の持つ心の闇がそうさせているとするしかない。
彼女のブログの筆致からは、自分をよく見せようという脚色は感じられない。「してもらって当たり前」「障がい者様のお通りじゃ」というストレートな物言いがひしひし伝わってくる。世を恨み、周りに当たり散らす。傍若無人な駅のベンチに靴ごと上がって寝転ぶ自分の子供たちの写真を嬉々として挙げる時点で、自分たちは特権的で何をやっても許される、障がいを理由になんでも拒否することは許さない、という明確な意思を感じ取るのだ。
彼女は当然障がい者を代表していない。だから「電動車いすに乗ってる奴みな自己中」と考えるのはおかしな話だ。しかし、彼女のせいで「面倒くさい人たち」「クレーマー」という意識を社会が持ってしまったことも事実である。無関係なほかの、善良で問題を起こそうなんて考えていない障碍者も同じ目で見られ、相互理解が進まず、さらに世間に対して憎悪の念を増幅させる。
分断の連鎖を断ち切るのは、いまだにJRの対応に疑義を唱える本人の意識改革しかないと思うのだ。「人は一人では生きていけずに誰かを求めてしまう」とは、当方が一時期お熱を上げていた某声優の歌う名曲の一節なのだが、支えられているという感覚が彼女にはないのかもしれない。心まで障がい者になってしまっている彼女は、何かと戦っているただただ痛い残念な人のままで人生を終わらせるつもりなのだろうか?