いよいよ、深掘るのもこれで最後にしたい。
最後にふさわしい題材を探すのに苦労したが、本当にこれこそ、私のこの映画解析の集大成となる事柄を見つけた。
とは言うものの、なかなかに結論がでない/当然異論は噴出することは百も承知だ。
だが、どの時点に基軸を置くか、に集中すれば、限りなく正解に近づくのではないか、とおもっている。
それでは題材の発表だ。
お題:三葉は、本当に一度「死んだ」のか?
映画のオープニング。「あの日、星が降った日」の時の三葉は、浴衣姿であり、イコール死に直面する時間帯にいる。
もちろん、あのまま破片の落下になすすべなくあの衝撃波に蹂躙されているだろうことも察しがつく。新聞の記事、犠牲者名簿…。客観的事実は曲げようがない。
だが、結果として三葉をはじめ、町からは死者は出ず、2022年の春に再会(正確にはお互い会ったことも記憶にないのに、お互いを求めあっていた)する。
仮説:
当方は、彼女の死はなかったものと考えている。
ただ、瀧と会っていた(それも2016年版)ことと、お互い入れ替わったことの記憶はほぼなく、初恋の相手がたまたま東京にいた、というレベルの出逢いとみている。
さあ、大変だ。
オープニングの映像を否定するような仮説。いまから読み下そうとしている諸兄も、ドキドキしているのではないだろうか。
では、仮説を証明すべくいろいろな事項を紐解いてみよう。
・オープニングのセリフを解析する
瀧「あの日、星が降った日。それはまるで」
三葉「まるで、夢の景色のように ただひたすらに」
瀧・三葉「美しい眺めだった」
なんで「夢の景色のように」って彼女が言うのか…オープニング自体に意味がある、と提示しているのはおそらく当方以外にいないだろうと思っているのだが、それはそれ自体が夢。現実とは異なっているから、と考えるのはちょっと飛躍しすぎか?
・第一の2013.10.4 が、「夢の中の出来事」と見れないか?
ムフフ。私は、既にそうではないか、と考えている。→三葉の瞳に映る物体の差異に気が付けば、この結論を導出することは可能だ。
トドメは「あんた今、夢を見とるな」
・歴史が確定した後半の描写が「正」とするなら、前半部分が「虚」となってしまう。
これは、彼女が生きている、少なくとも死んでいないという援護にもなる。すべてが間違っている可能性があるのならば、そもそも死に直面していないと考えるのが妥当。
・我々は「彼女の死」を目撃してはいない
確かに町民の1/3が死亡し、名簿にも載っている。だが、文字情報だけでしか提示されていない。さらに言うなら、割れている彗星を確認したのは落下の1時間ほど前。そのあと確かに画面は暗転し彼女に何かが起こったことを暗示はさせるが、それ以上の情報は提示されていない。
そして、その文字情報ですら「夢を見とるな」で囲まれた中の事象。
「そうは言っても…」
仮説に反証も挙げられよう。
・隕石落下は避けられず、第一の時間軸上では、回避のすべがないので死亡しているのは確実
映像上では、広場的な場所で彗星ショーに見入る3人組が描かれている。だが、彗星が割れて赤く光る隕石がこちらに向かってくることを三葉の瞳がものがたる。
当時のニュース映像からでも「隕石の軌道予測は不可能」とされており、当然糸守に降ってくることも想定できていなかったはずである。
つまり最初に図書館で見た資料そのものも「正」であり、歴史が改変した、町民全員生存が「新たな正」であるというのが大半の人の考えるところだろうと思う。
・「私、あの時…死んだの?」
口噛み酒トリップの記憶が三葉の中に取り入れられる。もちろん、それは、赤い破片ではなく、彗星本体が落ちてくるかのような事象として描かれているものだ。彼女はそれを見て、自分は死んだと思っている。
そして重要なのは「(2016/2013).10.22時点で三葉はこの世に存在していない」、しかも即死に近い状況で死に至っているので、当時の状況を記憶していないから、あのような表現になっているとも受け取れる。
だが、この物語の構成を思い出すと、当方の仮説はがぜん現実味を帯びてくる。
オープニングは…「朝、目が覚めると、なぜか泣いている」という大人三葉のセリフで幕を開ける。
そして我々はこのわずかな、「夢灯籠」が流れる前段階で、この作品が、第一の時間軸を否定していることに気が付く。
大人三葉はこういう。
「そういう気持ちに憑りつかれたのは、多分、あの日から」
"5次元"という表現があっているかどうかは別にして、まったく同い年の瀧と三葉が邂逅した2013年10月4日を彼女は思い出しているということである。もし仮に隕石落下を目の当たりにし、死んでいるはずの彼女が「そういう気持ち」=「ずっと何かを、誰かを探している」(瀧のセリフ)に憑りつかれるはずがない。瀧に会えていない時間軸は、彼女の記憶の中に存在していないと考えると、
・第一の時間軸上で描かれる2013年10月4日は、全て、何もかも、間違っている
・仮に映像の状況が現れたとするならば、それは「夢の中の出来事」で、現実ではない
と解釈することも「可能」である。
そもそも私は「歴史改変」「死者の生き返り」という観点でこのストーリーを見たくない。誰かのようにいくつもの時間軸が存在し、それを行き来しているように描くことはおそらく原作者の意図したものではないと感じているからである。
だから、2013年10月4日は「2016年10月22日の瀧」の入った三葉が町を救う、というのが「最も正しい」歴史であり、これ以外の正解は考えられない。三葉自身が彗星の直撃を受けないで、(けがはしていたとしても)生存できる時間軸こそが唯一の時間軸なのだ。
解析結果:
三葉が遭遇した『隕石落下』のシーンは、彼女を死に至らしめたものではなく、「事実」としての隕石落下の表現で留まっている。彼女が死んだこと/直撃を受けたことすべてが事実と異なる描写であり、それは夢の中の一コマ、とも解釈できる。
本来の2013年10月4日は、未来の瀧が入り、災害を回避する動きを三葉をはじめとする仲間が演じるのが正解であり、その過程で瀧と三葉がお互いの一致を見せるための別次元の2013.10.4で邂逅し、お互いをとりもどし、記憶を失いながらお互いの人生を歩んでいく、というストーリーにしてあるとみる。
よって、三葉は、死に直面していないし、死んでもいない。口噛み酒トリップ上の記憶は完全に間違っているし、浴衣姿で見た隕石も「夢の中の出来事」と解釈できる。
最後にふさわしい題材を探すのに苦労したが、本当にこれこそ、私のこの映画解析の集大成となる事柄を見つけた。
とは言うものの、なかなかに結論がでない/当然異論は噴出することは百も承知だ。
だが、どの時点に基軸を置くか、に集中すれば、限りなく正解に近づくのではないか、とおもっている。
それでは題材の発表だ。
お題:三葉は、本当に一度「死んだ」のか?
映画のオープニング。「あの日、星が降った日」の時の三葉は、浴衣姿であり、イコール死に直面する時間帯にいる。
もちろん、あのまま破片の落下になすすべなくあの衝撃波に蹂躙されているだろうことも察しがつく。新聞の記事、犠牲者名簿…。客観的事実は曲げようがない。
だが、結果として三葉をはじめ、町からは死者は出ず、2022年の春に再会(正確にはお互い会ったことも記憶にないのに、お互いを求めあっていた)する。
仮説:
当方は、彼女の死はなかったものと考えている。
ただ、瀧と会っていた(それも2016年版)ことと、お互い入れ替わったことの記憶はほぼなく、初恋の相手がたまたま東京にいた、というレベルの出逢いとみている。
さあ、大変だ。
オープニングの映像を否定するような仮説。いまから読み下そうとしている諸兄も、ドキドキしているのではないだろうか。
では、仮説を証明すべくいろいろな事項を紐解いてみよう。
・オープニングのセリフを解析する
瀧「あの日、星が降った日。それはまるで」
三葉「まるで、夢の景色のように ただひたすらに」
瀧・三葉「美しい眺めだった」
なんで「夢の景色のように」って彼女が言うのか…オープニング自体に意味がある、と提示しているのはおそらく当方以外にいないだろうと思っているのだが、それはそれ自体が夢。現実とは異なっているから、と考えるのはちょっと飛躍しすぎか?
・第一の2013.10.4 が、「夢の中の出来事」と見れないか?
ムフフ。私は、既にそうではないか、と考えている。→三葉の瞳に映る物体の差異に気が付けば、この結論を導出することは可能だ。
トドメは「あんた今、夢を見とるな」
・歴史が確定した後半の描写が「正」とするなら、前半部分が「虚」となってしまう。
これは、彼女が生きている、少なくとも死んでいないという援護にもなる。すべてが間違っている可能性があるのならば、そもそも死に直面していないと考えるのが妥当。
・我々は「彼女の死」を目撃してはいない
確かに町民の1/3が死亡し、名簿にも載っている。だが、文字情報だけでしか提示されていない。さらに言うなら、割れている彗星を確認したのは落下の1時間ほど前。そのあと確かに画面は暗転し彼女に何かが起こったことを暗示はさせるが、それ以上の情報は提示されていない。
そして、その文字情報ですら「夢を見とるな」で囲まれた中の事象。
「そうは言っても…」
仮説に反証も挙げられよう。
・隕石落下は避けられず、第一の時間軸上では、回避のすべがないので死亡しているのは確実
映像上では、広場的な場所で彗星ショーに見入る3人組が描かれている。だが、彗星が割れて赤く光る隕石がこちらに向かってくることを三葉の瞳がものがたる。
当時のニュース映像からでも「隕石の軌道予測は不可能」とされており、当然糸守に降ってくることも想定できていなかったはずである。
つまり最初に図書館で見た資料そのものも「正」であり、歴史が改変した、町民全員生存が「新たな正」であるというのが大半の人の考えるところだろうと思う。
・「私、あの時…死んだの?」
口噛み酒トリップの記憶が三葉の中に取り入れられる。もちろん、それは、赤い破片ではなく、彗星本体が落ちてくるかのような事象として描かれているものだ。彼女はそれを見て、自分は死んだと思っている。
そして重要なのは「(2016/2013).10.22時点で三葉はこの世に存在していない」、しかも即死に近い状況で死に至っているので、当時の状況を記憶していないから、あのような表現になっているとも受け取れる。
だが、この物語の構成を思い出すと、当方の仮説はがぜん現実味を帯びてくる。
オープニングは…「朝、目が覚めると、なぜか泣いている」という大人三葉のセリフで幕を開ける。
そして我々はこのわずかな、「夢灯籠」が流れる前段階で、この作品が、第一の時間軸を否定していることに気が付く。
大人三葉はこういう。
「そういう気持ちに憑りつかれたのは、多分、あの日から」
"5次元"という表現があっているかどうかは別にして、まったく同い年の瀧と三葉が邂逅した2013年10月4日を彼女は思い出しているということである。もし仮に隕石落下を目の当たりにし、死んでいるはずの彼女が「そういう気持ち」=「ずっと何かを、誰かを探している」(瀧のセリフ)に憑りつかれるはずがない。瀧に会えていない時間軸は、彼女の記憶の中に存在していないと考えると、
・第一の時間軸上で描かれる2013年10月4日は、全て、何もかも、間違っている
・仮に映像の状況が現れたとするならば、それは「夢の中の出来事」で、現実ではない
と解釈することも「可能」である。
そもそも私は「歴史改変」「死者の生き返り」という観点でこのストーリーを見たくない。誰かのようにいくつもの時間軸が存在し、それを行き来しているように描くことはおそらく原作者の意図したものではないと感じているからである。
だから、2013年10月4日は「2016年10月22日の瀧」の入った三葉が町を救う、というのが「最も正しい」歴史であり、これ以外の正解は考えられない。三葉自身が彗星の直撃を受けないで、(けがはしていたとしても)生存できる時間軸こそが唯一の時間軸なのだ。
解析結果:
三葉が遭遇した『隕石落下』のシーンは、彼女を死に至らしめたものではなく、「事実」としての隕石落下の表現で留まっている。彼女が死んだこと/直撃を受けたことすべてが事実と異なる描写であり、それは夢の中の一コマ、とも解釈できる。
本来の2013年10月4日は、未来の瀧が入り、災害を回避する動きを三葉をはじめとする仲間が演じるのが正解であり、その過程で瀧と三葉がお互いの一致を見せるための別次元の2013.10.4で邂逅し、お互いをとりもどし、記憶を失いながらお互いの人生を歩んでいく、というストーリーにしてあるとみる。
よって、三葉は、死に直面していないし、死んでもいない。口噛み酒トリップ上の記憶は完全に間違っているし、浴衣姿で見た隕石も「夢の中の出来事」と解釈できる。