多趣味・マツキヨの落書き帳

2013年(平成25年/皇紀2673年)1月、タイトル含めて大幅刷新いたしました。 現在、ダイエー店舗訪問記録/映画鑑賞記/即席麺試食記/ラーメン店訪問記がメイン記事となっております。画像/引用/リンク等は、ご随意に。

集団的自衛権

僕たちはそんなことをいう君に投資してきたわけではない

完全に怒り心頭に発した状態になってしまっている小生がいる。

すでにブログにもしたためているので、ご存じの方も多かろうが、東日本大震災に絡んで、脱原発を言い始めたあたりから、いやぁな空気を感じ取っていた。
そして、2013年。自身の引退作となる、「風立ちぬ」に絡んで投稿したコラムで、こんなことを言い出している。
こちらの記事がそれ。ちなみに、アーカイブ等で残っているかもしれないが、当の本人の文章を読むと、かなり胸糞が悪くなるので要注意である。

そして、当方の「決別宣言」。
http://matsukiyo.blog.jp/archives/51983109.htmlこのことをもって、彼を一アニメーション作家ではなく、一左翼活動家と呼ぶことに決めている(多分に苗字+氏で呼ぶことももうないだろう)。

その活動家氏。腐っても一映像作家である。外国特派員協会(これがまた、マスコミの巣窟=ヒダリマキがウヨウヨ、ならぬサヨサヨwww)での記者会見で言いたい放題を繰り広げたのだ。
ニュースソースはこちら。

だいたいにおいて、政治に首を突っ込むとろくなことがないことぐらい、このくらいの年になったら気が付きそうなものである。もちろん、自発的にあれやこれやと放言しまくっているので確信犯なのは疑いようがない。
彼自身は、国際社会の中での日本の立ち位置を理解せず、9条をはじめとする憲法がある限り戦争に巻き込まれることはない/それを変えようとしているのは愚劣である、という固定観念でしか物事を見ていないという、浅薄ぶりを露呈しているのである。

戦争は、相手がいないとできないことぐらい知っているはずであり、好むと好まざるとにかかわらず、状況が戦争に向かわしめることもあり得る。今の中狂の混乱ぶりは、経済面だけで収まるとはとても思えず、内戦→外向きの戦争に発展する可能性は大きい。つまり、今までは憲法を変えなくてもすんでいた世界情勢だったが、そうも言っていられない、ということがわからない。今の首相を愚劣呼ばわりするあたりに、自身の理論が完璧であるかのように思わせる鼻持ちならない上から理論である。

今まで変えなくてすんでいたのは奇跡的でもあり、また、日本が牙を抜かれたままで居続けて、アメリカにべったりになってしまっている状況に、アメリカもうんざりしているとも考えられる。「もういい加減、おまえらで自立してくれよ(軍事的に)」というメッセージは何度となく官邸に伝えられていることだろう。
その前段階の「集団的自衛権」なわけだが、「グンコクシュギガー。グンカクガー」と言い出すブサヨがわいて出てくるのは当然の帰結。結果的にあぶりだされた格好となってしまった。

辺野古移設は、昨日今日に決まった出来事ではない。むしろ、停滞させてごめんなさい、とっとと工事を推進します、という方向性ではなく、また一からひっくり返そうとする。日米両方に喧嘩を売っている俺カッケー、と本人が思っているかどうかは別にして、本当に左翼脳の人は、前に進ませようとしないのが特技である。
以前にも書いたが、そんな政治的主張を朗々と述べてもらうために、作品を支持したり、劇場に足を運んできたわけではない。「お金返して」とまでは申し出さないが、日本に仇成す行為・言論を弄するのなら、もはやすべての評価は大きく見直さなくてはならない。

2014.7.11 やっぱり見てしまうww となりのトトロ

ご承知のように、日テレ系の”宮崎駿”援護射撃は、今に始まったわけではない。
風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタ…このあたりまでは、いわゆる公開前に宮崎作品を放送することはほとんどなかったといっていい。
ところが、在庫が積み上がり始めた、90年代後半から、地上波での放送頻度は格段に上昇。夏場の劇場版公開前には、少なくても1本、今年みたいに3週連続、という大盤振る舞いを平気でするようになっている。

去年の「風立ちぬ」では、当方は、はっきり言って、見ていないながらも、宮崎氏の、脱原発発言や、例のとんでも意思表示などがあって、左巻きぶりが鼻についてしまい、それまで何とかニュートラルに振っていた宮崎氏への見方を一気にアゲインストにせざるを得ない状況になり、それがひいては、ジブリ作品の全否定につながりかねないところにまでいたろうとしていた時期すらある。

→去年の宮崎氏糾弾の記事はこちら

だがしかし・・・。よく言われるのは、「作品に罪はない」という殺し文句である。これを言われてしまうと、「確かに作品と監督の人格は別物だもんなぁ…」となってしまう。そう。実際、彼がそう言う思想的な部分をほとんど色濃く出そうとしていないジブリ黎明期の作品は、ややこしいこととはまったくもって無関係。すんなり没入できる作品群だったりするから具合が悪い。

穿った見方をしても仕方ない。というわけで、もはや何回書いたかわからないが、「となりのトトロ」の映画評をしてみたい。
この作品が、いまだに一種の金字塔として崇め奉られている要因として、「古き良き時代の日本が背景にある」ことが大きいとみている。実際、昭和30年代、電気もガスも潤沢に供給されているわけでもなく、耕運機も無縁の農作業が展開されている田園風景に溶け込むように短編成の田舎電車が通っている。そんなオールディズの日本を舞台にした作品が、昭和の最終盤に公開されたことも非常に大きい。
二人の姉妹の前に降り立つ、様々な「精」。子供だから見られる、純真さが一種うらやましい。トトロとの最初の出会いをしたメイ。所詮は、偶然の産物ともいえるものだが、物語の中盤ちょっと前で大きく動く。
私の一押し場面は、やはり、ドングリの発芽から巨大な大木になっていくところだ。もう、あのシーンは、何回見てもコミカルで、それでいて、おおおっと思わせてくれるシーンである。現実にも芽が出ていて、「夢だけど、夢じゃなかったぁ」と大喜びする姉妹がなんとも微笑ましい。

後半は、メイが母親のもとにトウモロコシを届けようとして道に迷うというイベントで幕を開ける。ここもメイの足元をなぜかアップで映しておいて、のちに出てくる池に浮かんだサンダルとの違いを明確に先に観客に提示させて、安堵させておくという手法をとることで、物語のスピードから取り残されないようにしておく、心憎い演出があった。
そしてまたしても登場の猫バスのシーン。もう、ここの「メイ」の行き先表示には爆笑するしかない、というものだった。
もちろんメイは見つかり、母親のもとにトウモロコシも届けられ、大団円。こまっしゃくれたエンディングではなく、きっちり伏線も何もかもを回収して終わらせるのだから、やはりすごいというべきだろう。

劇場公開時の同時上映は、あの「火垂るの墓」。一方では主人公二人がみじめな死を迎えるという破滅的な最期であるのに、この作品は、まさに対照的。ファンタジーもできるんです、と言いたげな宮崎氏のドヤ顔が目に浮かぶようである。スクリーンで見た時はどっちが先だったのかは覚えていないのだが、あの結末を見せつけられたら、トトロの主人公たちが恵まれすぎている、と感じずにはいられない。同じ非戦闘員でも10年時代が下るとこうも違うのか…。彼女たちの明るい笑顔も、多大な犠牲の上にあると感じるとき、素直に感動できない自分がいる。

集団的自衛権がどうとか喧しい。きっと宮崎氏の考えは、「戦争に近づく」という一方的な思い込みで済ませているはずである。その一方、彼ら「9条信者」によれば、憲法を守ることは戦争にならないのだそうである。相手がいるにもかかわらず、だ。こういう論理を振りかざしているから、左翼はかなわないのである。
戦争をした結果がどうなるのかなんて、決まった話である。憲法があれば戦争にならないというお花畑には、集団的自衛権の本当の意味は分かりっこないだろう。それは「無邪気に野原を駆け回る子供たちの安全をつかさどるもの」だから必要に駆られて制定しただけのことである。
まあ、今から何を言っても伝わらないとは思うが、老害・宮崎氏の唯一の「遺産」といえる作品にまたふれられたのはある意味よかった。
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