2019年4月30日。
そう。この日がまごうことなき「平成最後の日」なのである。
近代の元号の変遷は、在位していた天皇の崩御、すなわち死去によってのみ執り行われたものであり、明治→大正→昭和→平成まではそのルーチンを護り続けてきた。
ところが、医療技術も進み、高齢でも存命することが可能になっている現在、ただのお飾りならいるだけでいいのだが、神事をこなさないといけない天皇の存在は、それに耐えられなくなった時が引退時であると今上天皇陛下は悟られたのだと思う。
天皇の存在が今まで日本人に成してきたことの大きさは、私のような一般人が言うまでもないことだろう。むしろ、生前譲位という大英断こそ、新たにやってくる令和の世が、死によって変わらなかった時代として刻まれるのだから、これほどの偉業を成し遂げられたことでも重要なことだと思う。
さて、10連休真っただ中の日本列島。私自身も、映画一本のために約一万円近く旅費をかけて一本観に行くなど、経済効果は激しく出ているのではないか、と思う。そんな中にあって、原作の中にあった「2020年東京オリンピック」を早い段階から予想し、しかもそれが映像化されている、「AKIRA」の存在がクローズアップされるのだが…...
ここ−−−塚口サンサン劇場−−−はそれを「平成−令和」跨ぎとなる一週間限定で上映するというのだから、参加しないわけにはいくまい。
4/30、平成最後の日はお休み。何とかカラオケで一部曲のリベンジ(いわゆる一位奪取/のどの調子絶不調でも数曲達成できるのだから大したもの)を済ませ、いざ出陣。
14時過ぎに現地到着。すでに午前中の購入時点で空席はほとんど見当たらなかったので、えいやっとばかりにE列の端っこの席をゲット。入場始まって中に入って驚いた。
名作を懐かしむべき50台のオッサンばかりか、と思いきや、なんとなんと、女性の比率が想像よりも高いのだ。そして何より、若年層…ぶっちゃけ平成しか知らない世代の比率もばかにならないのである。当方試算の平均年齢はそう言ったわけで、40代前半にまで。上映当時当方は20代前半(1988年公開なので、20歳前後ってことになるんだが、もっとガキのころだったように感じていた)だったと記憶しているが、ファースト世代はそこまで真剣に対峙しているようには見えなかった。男女比は3:2、厳密にはやや男性優位、というレベルであり、「何が女子をそうさせたのか」と思わずにはいられない。
一度見ていたはずの映像だが、残像すら頭の中にこびりついてもいない。それでも、いきなり爆発するシーンでびっくりする。あのシーン一発でそれこそ、今話題の改元だの天皇制だのがそこには存在していない日本ということが言えると思う。
そして時は過ぎ2019年。サイバーパンク的な日本になってしまっている東京。暴走族に身をやつしている金田御一行たち。敵対するチームとの抗争に明け暮れる毎日だったわけだが、それが鉄雄の拉致ということを通じて事態に巻き込まれていく。
レジスタントのメンバーであるケイとつながっていく金田。それはこういう青春物に見られる、のちに良い仲になる、という示唆を持って迎えられる。しかし、ことは重大局面に立ち入っていた。鉄雄の”覚醒”だった。彼のパワーが徐々に解放されていく。そして市街戦の場面で、軍と渡り合えるまでの力を得てしまうのである。
それを何とか止めたい金田だったが、山形を殺されたことで考え方も変わっていく。かくして国立競技場の建設現場で金田と鉄雄、そして能力者であるちびっこナンバーズたちがそこに対峙するのであった……
初見はそんなわけで大学生時代であったにもかかわらず、ほとんど残っていないという体たらく。しかも、話の筋が全く追いついていなかったようにも思えたし、尻切れトンボな終わり方に愕然としたものだった。
だが、オサーンになり、そこそこに映画も嗜んでこれた今ならはっきりといえる。
「なんだ、これ???」(神木隆之介 談/もちろんいい意味で)
1988年作ということは、ほぼCGなど使っていない時期。仮に使うにしても、バカ高かったはずである(番組opに使われ始めたのがこのころであり、「ひょうきん族」のそれは当時の価格で数千万円したとか)。wikiで調べたところ、その当時で制作費が10億円かかっている。それもそのはず。今のような製作現場ではなく、ほぼすべて手書き、セル画、気の遠くなるような撮影と言った人手のかかる昭和の制作風景だからである(wikiによれば、総セル画枚数約15万枚を使用。アフレコではなくプレスコを採用して、会話のアニメートもできるだけ自然に見えるように作画する念の入れようだったようだ)。しかも今回観たのは、『大友が自ら200ものカットに手を加え、さらに1億円の巨額を投じ、撮影や音響を向上させた国際映画祭参加版』(Wiki)だったようで、その証拠にすべてのエンドクレジットが英字表記になっていた。道理で映倫表記もなかったわけだ。
特別仕様であろうがなかろうが、この作品の評価は決まっている。97点である。
正直、このクラスの作画/動画レベルを80年代末期に実現できていることが奇跡でもあるし、確かに金さえかければいくらでも精細な仕事ができていた時期でもある。今のように粗製乱造できないやり方であるがゆえに一本に集中するのは半端ないとみる。
この作品の本来の主人公である金田と鉄雄が途中で役割が入れ替わり、力を持った鉄雄が豹変していくさまは今までの幼馴染物で考えてもなかなかないシチュエーションだと思う。もちろん後日談を無視して、一旦鉄雄が空中に連れ去られるところで終わってしまっているようではあるが、ケイ自身にも何らかの能力が備わっていることは、憑依されてしまっていたことからもうかがえる。
確かにあの当時といえば、マクロス、ガンダムの黎明期。そしてこの作品を作ったのは、ルパンシリーズを送り出した東京ムービー新社。Wikiで見た作画スタッフもきら星のごとく有名どころが軒を連ねている(高坂希太郎氏もあったとは!)。
とにかく画の熱量が半端ないのである。それに畳みかけるような芸能山城組の無国籍な音楽。俳優の吹替え(とはいっても、鈴木瑞穂に石田太郎となれば、アニメ界隈でも出演が多かった常連級)でもミスキャストは感じられず、硬派な出来に仕上がっている。
絵で殴られ、音で打ちのめされ、動きに驚嘆の声を上げる。しかも、それが平成の世ではなく、昭和年間に上映されたものだと知るとその驚きも倍増する。「これ、ぜんぶ手書きなんだぜ…」明るくなってそれしか言葉が出なかったのは秘密である。
平成が終わるその日に昭和末期に公開された作品を見る。そのこと自体は何の変哲もないことのようだが、見たのが「AKIRA」なら話は別である。本当によくぞこの作品をかけてくれたものだと感謝するしかない。
そう。この日がまごうことなき「平成最後の日」なのである。
近代の元号の変遷は、在位していた天皇の崩御、すなわち死去によってのみ執り行われたものであり、明治→大正→昭和→平成まではそのルーチンを護り続けてきた。
ところが、医療技術も進み、高齢でも存命することが可能になっている現在、ただのお飾りならいるだけでいいのだが、神事をこなさないといけない天皇の存在は、それに耐えられなくなった時が引退時であると今上天皇陛下は悟られたのだと思う。
天皇の存在が今まで日本人に成してきたことの大きさは、私のような一般人が言うまでもないことだろう。むしろ、生前譲位という大英断こそ、新たにやってくる令和の世が、死によって変わらなかった時代として刻まれるのだから、これほどの偉業を成し遂げられたことでも重要なことだと思う。
さて、10連休真っただ中の日本列島。私自身も、映画一本のために約一万円近く旅費をかけて一本観に行くなど、経済効果は激しく出ているのではないか、と思う。そんな中にあって、原作の中にあった「2020年東京オリンピック」を早い段階から予想し、しかもそれが映像化されている、「AKIRA」の存在がクローズアップされるのだが…...
ここ−−−塚口サンサン劇場−−−はそれを「平成−令和」跨ぎとなる一週間限定で上映するというのだから、参加しないわけにはいくまい。
4/30、平成最後の日はお休み。何とかカラオケで一部曲のリベンジ(いわゆる一位奪取/のどの調子絶不調でも数曲達成できるのだから大したもの)を済ませ、いざ出陣。
14時過ぎに現地到着。すでに午前中の購入時点で空席はほとんど見当たらなかったので、えいやっとばかりにE列の端っこの席をゲット。入場始まって中に入って驚いた。
名作を懐かしむべき50台のオッサンばかりか、と思いきや、なんとなんと、女性の比率が想像よりも高いのだ。そして何より、若年層…ぶっちゃけ平成しか知らない世代の比率もばかにならないのである。当方試算の平均年齢はそう言ったわけで、40代前半にまで。上映当時当方は20代前半(1988年公開なので、20歳前後ってことになるんだが、もっとガキのころだったように感じていた)だったと記憶しているが、ファースト世代はそこまで真剣に対峙しているようには見えなかった。男女比は3:2、厳密にはやや男性優位、というレベルであり、「何が女子をそうさせたのか」と思わずにはいられない。
一度見ていたはずの映像だが、残像すら頭の中にこびりついてもいない。それでも、いきなり爆発するシーンでびっくりする。あのシーン一発でそれこそ、今話題の改元だの天皇制だのがそこには存在していない日本ということが言えると思う。
そして時は過ぎ2019年。サイバーパンク的な日本になってしまっている東京。暴走族に身をやつしている金田御一行たち。敵対するチームとの抗争に明け暮れる毎日だったわけだが、それが鉄雄の拉致ということを通じて事態に巻き込まれていく。
レジスタントのメンバーであるケイとつながっていく金田。それはこういう青春物に見られる、のちに良い仲になる、という示唆を持って迎えられる。しかし、ことは重大局面に立ち入っていた。鉄雄の”覚醒”だった。彼のパワーが徐々に解放されていく。そして市街戦の場面で、軍と渡り合えるまでの力を得てしまうのである。
それを何とか止めたい金田だったが、山形を殺されたことで考え方も変わっていく。かくして国立競技場の建設現場で金田と鉄雄、そして能力者であるちびっこナンバーズたちがそこに対峙するのであった……
初見はそんなわけで大学生時代であったにもかかわらず、ほとんど残っていないという体たらく。しかも、話の筋が全く追いついていなかったようにも思えたし、尻切れトンボな終わり方に愕然としたものだった。
だが、オサーンになり、そこそこに映画も嗜んでこれた今ならはっきりといえる。
「なんだ、これ???」(神木隆之介 談/もちろんいい意味で)
1988年作ということは、ほぼCGなど使っていない時期。仮に使うにしても、バカ高かったはずである(番組opに使われ始めたのがこのころであり、「ひょうきん族」のそれは当時の価格で数千万円したとか)。wikiで調べたところ、その当時で制作費が10億円かかっている。それもそのはず。今のような製作現場ではなく、ほぼすべて手書き、セル画、気の遠くなるような撮影と言った人手のかかる昭和の制作風景だからである(wikiによれば、総セル画枚数約15万枚を使用。アフレコではなくプレスコを採用して、会話のアニメートもできるだけ自然に見えるように作画する念の入れようだったようだ)。しかも今回観たのは、『大友が自ら200ものカットに手を加え、さらに1億円の巨額を投じ、撮影や音響を向上させた国際映画祭参加版』(Wiki)だったようで、その証拠にすべてのエンドクレジットが英字表記になっていた。道理で映倫表記もなかったわけだ。
特別仕様であろうがなかろうが、この作品の評価は決まっている。97点である。
正直、このクラスの作画/動画レベルを80年代末期に実現できていることが奇跡でもあるし、確かに金さえかければいくらでも精細な仕事ができていた時期でもある。今のように粗製乱造できないやり方であるがゆえに一本に集中するのは半端ないとみる。
この作品の本来の主人公である金田と鉄雄が途中で役割が入れ替わり、力を持った鉄雄が豹変していくさまは今までの幼馴染物で考えてもなかなかないシチュエーションだと思う。もちろん後日談を無視して、一旦鉄雄が空中に連れ去られるところで終わってしまっているようではあるが、ケイ自身にも何らかの能力が備わっていることは、憑依されてしまっていたことからもうかがえる。
確かにあの当時といえば、マクロス、ガンダムの黎明期。そしてこの作品を作ったのは、ルパンシリーズを送り出した東京ムービー新社。Wikiで見た作画スタッフもきら星のごとく有名どころが軒を連ねている(高坂希太郎氏もあったとは!)。
とにかく画の熱量が半端ないのである。それに畳みかけるような芸能山城組の無国籍な音楽。俳優の吹替え(とはいっても、鈴木瑞穂に石田太郎となれば、アニメ界隈でも出演が多かった常連級)でもミスキャストは感じられず、硬派な出来に仕上がっている。
絵で殴られ、音で打ちのめされ、動きに驚嘆の声を上げる。しかも、それが平成の世ではなく、昭和年間に上映されたものだと知るとその驚きも倍増する。「これ、ぜんぶ手書きなんだぜ…」明るくなってそれしか言葉が出なかったのは秘密である。
平成が終わるその日に昭和末期に公開された作品を見る。そのこと自体は何の変哲もないことのようだが、見たのが「AKIRA」なら話は別である。本当によくぞこの作品をかけてくれたものだと感謝するしかない。