大ヒット映画で比較検討することになるわけだが、ジャンルも描かれている素材も違うと思われがちな「JOKER」と比較しようと思った理由は2つある。
ひとつは「銃」の存在である。そしてもう一つは「世界を変える」という意味である。
順に見ていく。
帆高も、JOKERの主人公・アーサーも、拳銃については、いずれも偶発的に手に入れている。なんだったらアーサーの場合、イヤイヤ受け取っている。それは、道化師という自分には不似合いだと思っていたからである。帆高も、実銃でない、せいぜい脅しに使えるくらいという意味合いでしか携帯していない。
ところがそれを使わざるを得ない局面が二人に訪れる。帆高は、女の子を護り、自分の身を護るために、銃を取り出す。アーサーも、リーマン3人にボコられるその時まで銃を使うことを考えていなかったものと思われる。ところが、二人は発砲する。アーサーは、ご丁寧に止めまで執拗に打ち込んでいる。帆高は一発で相手がビビったこともあるのだが、それは当の本人も実弾が出るとは思っていなかったからでもある。
ここで注意しなくてはいけないのは、アーサーは銃の威力を知り、その後の人生の第一の転落を始めている点であり、帆高は、一発撃っただけで銃を放棄し、その道に立ち入らなかったところにある。
この二つの作品が描く銃の扱い方は、ほぼ同一だ。自ら欲したわけではない銃が、その後の彼らの運命を変えることになるとは、誰も想像していないからである。
もっと言うと、物語の最後半に、二人は銃を手にする機会を得る。アーサーは、自分を笑いものにした司会者を手にかけ、帆高は、号砲かのように一発虚空に向かって打ち、涙にくれるのだ。
すでに銃の役割は物語が進むにつれて大きく変わっている。アーサーにとって、銃は、自己実現にとって必要な"道具"になっているが、帆高にとっては、自分を鼓舞するきっかけ、追いすがるものを引き離すためでしかなくなっている。
面白いことに、この後の二人の人生も似通っている。二人とも逮捕はされるが、外的要因によってアーサーはいったんは自由の身になり、収監先でひと悶着起こしてエンディングを迎え、帆高は保護観察処分を経て自由の身になるのだ。
銃がもたらす二人の人生の転生ぶり。もし、帆高の放った一発の銃弾がスカウトマン木村の顔面に命中していたとしたら、このストーリーは、血なまぐさいものになっただろうし、アーサーが銃を構えたのみで発砲していなかったら、ジョーカーにアーサーが成ることはなかったのではないかとさえ思う。
「世界を変えた」ことにも言及しよう。
帆高は、陽菜を人柱から連れ戻したことで「世界を変えた」と思っている(思い込んでいる/海面上昇は、雨だけでは到底発生せず、別要因であることは間違いない)。それはラストシーンの独白でもわかる仕掛けになっている。
一方のジョーカーは、アーサーがたまたまピエロの扮装で殺戮をしたこと、相手が寄りにもよっていわゆる「上級市民」であったこと、死そのものより、それが宣戦布告になって一気に貧困層の不満が爆発したことが、彼をジョーカーに押し上げたとみている。
何度も書いているのだが、「ジョーカーにたまたまアーサーが成っただけで、誰かがジョーカーになる素地はもともとあった」のがゴッサムシティだ。一方、2024年の日本は、映画のように水没してしまっている未来は描けない。帆高と陽菜が世界を変えるほどの力を持っているわけではなく、まして、非科学的な雨が降り続く事態というのは、映画の中だけの絵空事といえなくもない。
ただ主人公が「世界を変えた」と感じているのはどちらも同じである。天気の子では、「陽菜を選んだ」こと、ジョーカーは「自分の行為が別の正義である」と認識している。誰もこの選択を否定できないところに、この両作品の深さと思想を感じ取るのである。
ひとつは「銃」の存在である。そしてもう一つは「世界を変える」という意味である。
順に見ていく。
帆高も、JOKERの主人公・アーサーも、拳銃については、いずれも偶発的に手に入れている。なんだったらアーサーの場合、イヤイヤ受け取っている。それは、道化師という自分には不似合いだと思っていたからである。帆高も、実銃でない、せいぜい脅しに使えるくらいという意味合いでしか携帯していない。
ところがそれを使わざるを得ない局面が二人に訪れる。帆高は、女の子を護り、自分の身を護るために、銃を取り出す。アーサーも、リーマン3人にボコられるその時まで銃を使うことを考えていなかったものと思われる。ところが、二人は発砲する。アーサーは、ご丁寧に止めまで執拗に打ち込んでいる。帆高は一発で相手がビビったこともあるのだが、それは当の本人も実弾が出るとは思っていなかったからでもある。
ここで注意しなくてはいけないのは、アーサーは銃の威力を知り、その後の人生の第一の転落を始めている点であり、帆高は、一発撃っただけで銃を放棄し、その道に立ち入らなかったところにある。
この二つの作品が描く銃の扱い方は、ほぼ同一だ。自ら欲したわけではない銃が、その後の彼らの運命を変えることになるとは、誰も想像していないからである。
もっと言うと、物語の最後半に、二人は銃を手にする機会を得る。アーサーは、自分を笑いものにした司会者を手にかけ、帆高は、号砲かのように一発虚空に向かって打ち、涙にくれるのだ。
すでに銃の役割は物語が進むにつれて大きく変わっている。アーサーにとって、銃は、自己実現にとって必要な"道具"になっているが、帆高にとっては、自分を鼓舞するきっかけ、追いすがるものを引き離すためでしかなくなっている。
面白いことに、この後の二人の人生も似通っている。二人とも逮捕はされるが、外的要因によってアーサーはいったんは自由の身になり、収監先でひと悶着起こしてエンディングを迎え、帆高は保護観察処分を経て自由の身になるのだ。
銃がもたらす二人の人生の転生ぶり。もし、帆高の放った一発の銃弾がスカウトマン木村の顔面に命中していたとしたら、このストーリーは、血なまぐさいものになっただろうし、アーサーが銃を構えたのみで発砲していなかったら、ジョーカーにアーサーが成ることはなかったのではないかとさえ思う。
「世界を変えた」ことにも言及しよう。
帆高は、陽菜を人柱から連れ戻したことで「世界を変えた」と思っている(思い込んでいる/海面上昇は、雨だけでは到底発生せず、別要因であることは間違いない)。それはラストシーンの独白でもわかる仕掛けになっている。
一方のジョーカーは、アーサーがたまたまピエロの扮装で殺戮をしたこと、相手が寄りにもよっていわゆる「上級市民」であったこと、死そのものより、それが宣戦布告になって一気に貧困層の不満が爆発したことが、彼をジョーカーに押し上げたとみている。
何度も書いているのだが、「ジョーカーにたまたまアーサーが成っただけで、誰かがジョーカーになる素地はもともとあった」のがゴッサムシティだ。一方、2024年の日本は、映画のように水没してしまっている未来は描けない。帆高と陽菜が世界を変えるほどの力を持っているわけではなく、まして、非科学的な雨が降り続く事態というのは、映画の中だけの絵空事といえなくもない。
ただ主人公が「世界を変えた」と感じているのはどちらも同じである。天気の子では、「陽菜を選んだ」こと、ジョーカーは「自分の行為が別の正義である」と認識している。誰もこの選択を否定できないところに、この両作品の深さと思想を感じ取るのである。