小松菜奈、といえば、つい最近、俳優の菅田将暉と結婚したことでも有名だ。リアル「糸」の世界観が現実のものになった、ともいえるわけだが、菅田将暉が和人を演じていたら、どんな化学反応が起こりえるのか、は正直言って見たかった、というのがある。それは「この病気が実際に存在し、難病指定もされ、見た目それほど健常者と変わらないのに不自由を余儀なくされ、突然死もありえる」世界を自分ごととしてとらえた時の演技が半端ないものになりえたからである。
とはいえ、「下手だ」とか、「印象が薄い」といったように坂口健太郎を貶めているわけではない。彼は彼なりの和人像があっただろう。監督からの注文に応えた部分もあっただろう。いかに父親と疎遠になっているからと言って、「町工場の2代目」感が抜けきれないまま終劇してしまったから、余計にそう思ってしまうのかもしれない。
死に行くはずの茉莉が、死に損なった和人を励ます序盤、和人が励まされて自分を見出していく中で恋が芽生える中盤、ラスト前の死期迫る中で、撮った動画たちを消していく茉莉の想いがビシビシ伝わる。
この悲恋物語に、RADWIMPSの、オーケストレーションされた劇伴が見事にぴったりはまるのだ。RADといえば、「君の名は。」の劇伴と「前前前世」という大ヒット作で知名度も上がり、「天気の子」でも印象的な楽曲で世界観を彩った。今回の劇伴は、映像に合わせる感じの「君の名は。」方式であるがゆえに、同作品っぽく聞こえるところもあり、"会えるけれど死に別れる「君の名は。」"風に感じた人も少なくないだろう。
得点は、94点。押さえ目、ともいえるけれど、結局「一つ」になれなかった二人のいじらしさが加点を拒んだ部分がある。
小松菜奈も本当に成長したと思うし、この作品の彼女の病んでいく姿を後半正視できなくなるほどにメイクで見せたあたりはきつかった。母親役の原日出子とのツーショットは、まさしく茉莉の本心であり、強がっていた精神が一気に崩壊していくさまをこれでもか、と見せつけていく。このワンシーンを見るだけで本当にお腹いっぱい、胸いっぱいになる。その二人のやり取りを黙って聞いて、涙にくれる松重豊の芝居も一級品だった。
ネット・スマフォが当たり前になりつつある現代において、遠距離恋愛やラブレターという文化がどんどん題材になりにくくなる恋愛映画は、「キミスイ」や本作に代表されるように、死と隣り合わせで感動させないといけない窮屈さが浮き彫りになっている。ますます恋愛物語の映像化は困難になっていくことだろう。
とはいえ、「下手だ」とか、「印象が薄い」といったように坂口健太郎を貶めているわけではない。彼は彼なりの和人像があっただろう。監督からの注文に応えた部分もあっただろう。いかに父親と疎遠になっているからと言って、「町工場の2代目」感が抜けきれないまま終劇してしまったから、余計にそう思ってしまうのかもしれない。
死に行くはずの茉莉が、死に損なった和人を励ます序盤、和人が励まされて自分を見出していく中で恋が芽生える中盤、ラスト前の死期迫る中で、撮った動画たちを消していく茉莉の想いがビシビシ伝わる。
この悲恋物語に、RADWIMPSの、オーケストレーションされた劇伴が見事にぴったりはまるのだ。RADといえば、「君の名は。」の劇伴と「前前前世」という大ヒット作で知名度も上がり、「天気の子」でも印象的な楽曲で世界観を彩った。今回の劇伴は、映像に合わせる感じの「君の名は。」方式であるがゆえに、同作品っぽく聞こえるところもあり、"会えるけれど死に別れる「君の名は。」"風に感じた人も少なくないだろう。
得点は、94点。押さえ目、ともいえるけれど、結局「一つ」になれなかった二人のいじらしさが加点を拒んだ部分がある。
小松菜奈も本当に成長したと思うし、この作品の彼女の病んでいく姿を後半正視できなくなるほどにメイクで見せたあたりはきつかった。母親役の原日出子とのツーショットは、まさしく茉莉の本心であり、強がっていた精神が一気に崩壊していくさまをこれでもか、と見せつけていく。このワンシーンを見るだけで本当にお腹いっぱい、胸いっぱいになる。その二人のやり取りを黙って聞いて、涙にくれる松重豊の芝居も一級品だった。
ネット・スマフォが当たり前になりつつある現代において、遠距離恋愛やラブレターという文化がどんどん題材になりにくくなる恋愛映画は、「キミスイ」や本作に代表されるように、死と隣り合わせで感動させないといけない窮屈さが浮き彫りになっている。ますます恋愛物語の映像化は困難になっていくことだろう。